式神さんについて調べていたところ、京都が魔都といわれていた所以とはなんだろう?と思い、ガイドのルシフェルおじさんに聞いてみました。

→もしかして京都というのは、魔を現実の事象とさせようとしたんですかね?

「魔都といわれていたのはそういう意味もある。
京都は魔が意識する都、魔を意識する都。
魔を意識することで大いなる守り神としようとしたこと。
魔と人間、両方が認め合ったからこそ魔都となったんだ。
それが晴明を生み出した」

→安倍晴明を知っているんですか?

「知ってるんですか?って。天使は彼を知っているか?知っているさ。有名人だからな」

→魔除けの存在をつくったのは何故?

「魔を寄り付かせないようにしたが寄りつくようになった。そうしたらみんなが見えた。幻覚だ。(魔物として物質化されていたわけではない)が、魔が蔓延していたことだけは確かだ」

→そこに居た魔とは何でしょうか。

「空間の魔、か。それがな、分からないんだよ。そうだ。どこからきてどこへいくのか分からない。空間が魔を呼ぶんだ。そう、魔を呼ぶつくりになっていたんだ」

高位の存在はチャネリングに慣れてくると、高位の存在同士に仲介してもらって話すことができるそうです。
知り合いの方が京都を守るといわれている四神のうち、青龍に意識を向けたことがあり、
「都を守る四神は土地ではなく空間に居る」
と言いました。
青龍様曰く、
「土地と空間の間に裂け目があり、そこから魔が放たれるだけ放たれた。それを防ぐために四神がおかれた」
そうです。

また、同じように都がおかれた場所として鎌倉がありますが、神様が嘆いている、ともその方から訊きました。

「パワースポットと聞いてふざけて行くのと、土地に敬意を払って、参拝するのとではわけがちがう。
銭洗い弁天様に敬意を払っているか?
金さえ洗えばいいというのでは、間違っていることくらいわかるだろう。
銭にかける情熱くらい、神様に敬意を払えよ」

ぐうの音も出ません。かつてクレカを洗った身としてはorz
確かに、私が行ったとき、まさかのまさか、さい銭箱にバッグを置いている方もいました。人の事は言えませんが、さすがにあいた口がふさがらなかったです。

かつて、清正の井戸、神戸岩をパワースポットとしてもてはやし、現地に魔を捨てて行ってそれがまた人に憑く、そういうことがあると聞きました。
これはループします。人が魔を捨て、捨てられた魔が人に憑く。

そもそも、清正の井戸は主に出会いを促進させるような優しいスポットだったのですが、有名になってから許容量をオーバーしたのではないかと思っています。

私がパワスポとして無名の頃に最初に訪れたあと、ちょっと華やかな世界に足を踏み入れた事があったので、もう一度行って写真を撮ったら醜悪な人間の顔がくっきり3つ写りました。その翌日から悪いことが起こり始めて、なくなく削除した思い出があります。

考えてみれば、私は感謝の念をもってまた清正の井戸に行ったのだろうか?御礼の言葉くらい口にしたのだろうか?

そう思うと、対象に感謝するという姿勢は必ず持たなければいけないと思います。


そこで思ったのですが、魔と人の念は違うのだろうか?と、その違いについて、一昨日、新しく迎えた式神のえんせーさんが、

「魔と念は違う。念は強いが魔は強くない。だが、魔は重なると大きくなる。かたちになるんだ。(魔は)念にも混じっているが、魔そのものは本人が意識しなければ大きくならない。土地に置いて行かれた魔は大きくなれば意識を持つ。その念が強くなるんだ」

それはパワースポットと呼ばれる土地にはどこにでも有り得るものです。
それを防ぐには、まず土地に敬意と感謝をすること。
そして、現地に人間が捨ておいた魔が浄化されることを少しでも祈ること。
だそうです。

 

最後にルシフェルおじさんに、魔が憑りついたらどうなるかについて訊いたところ、

 

「魔が憑りつくとまた魔が生まれる。それが意識されれば人間が歪んでいくんだ。
それが「全然大丈夫!」っていう奴もいるな(笑)。
それがいいんだ。それが人間なんだ」
 

(要は、弱っている人間が強い場所に行ったらだめだっていうのは、そういうことですか?)
 

「そういうことだ」