越前町劔神社 | 古墳んぽ~古墳と野の草を観察しながら散歩

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劔神社

 

 

 

 

    

劔神社の創祀は悠久の昔、北に仰ぐ座ヶ岳の峰に素盞嗚大神を祀り〝劔大神〟と称えたことに始まります。

神功皇后摂政の頃、第十四代仲哀天皇の第二皇子忍熊王は、劔大神の御神威を頂き当地方を治めることができたことを感謝し、現在の地に社を建て〝劔大明神〟と仰いだことを社記は伝えています。

 

奈良時代より祈願の霊場と尊ばれ、朝廷をはじめ多くの人々から厚い信仰を受けてきました。

 

 

 

 

 

 

 

本殿

 

 

 

御祭神
素盞嗚大神
氣比大神
忍熊王 

 

 

    

第七代孝霊天皇の御代に、伊部郷の北に聳える座ヶ岳の峰に素盞嗚大神を祀り、その後、第十一代垂仁天皇の御代に、伊部臣という人が和泉国鳥取川上宮で造られた千口の劔の一口を戴き御霊代として祀り、「劔の大神」と称えられてきたことが縁起として伝えられている。
また、神功皇后摂政のころ、第十四代仲哀天皇の第二皇子・忍熊王が素盞嗚大神を現在の織田の杜に遷されたことを、座ヶ岳の故事として次のように伝えている。
     
忍熊王は、瀬田川の戦いに敗れて越前国に入られ、敦賀から海を渡って梅浦に到着された。そこで良民が賊に苦しめられていることを大変哀れみ、その賊の討伐に立ち上がられた。悪戦苦闘することたびたび、ついに疲れのために大木の洞穴で身を休めていると、霊夢があって「皇子努力せよ。我今なんじに霊剣を授くべし。我はこれ素盞嗚神なり」と。ほどなく座ヶ岳で伊部臣という者から神剣を受けられ、この地を無事治める事ができた。王は織田の地に社殿を営み、この神剣を素盞嗚神の御霊代として祀り、民を導き地方開発に力を注がれた。しかるに惜しくも若くしてお隠れになられたので、郷民はその恩に報いるために神として祀ることとなった。すなわち忍熊王を素盞嗚神の再来と敬い、お二方を一座の大神と拝することとなった。
   
劔神社は、忍熊王が賊徒討伐の時、素盞嗚大神の御神威をいただき窮地を脱し、この地を無事治めることができたことに対し、神恩感謝の誠を捧げ社を造り、素盞嗚大神を主神に氣比大神を配神として祀ったことに始まる。更に忍熊王が薨去されるや、その徳を慕い御祖神と仰いで合祀し、三座の神を劔大明神と称えた。劔神社に伝わる室町時代後期の様子を示す『劔神社古絵図』(口絵)では、劔神社の本殿と小さめの氣比社の2社に別けて祀られている建物の構成を見ることができる。
 

 

 

 

 

 

 

本殿

 

 

 

 

 

 


 

摂社 織田神社

 

 

ご祭神 
保食大神 

仲哀天皇 

応神天皇

 

 

 

    
 劔神社の摂社織田神社は保食(うけもち)神(のかみ)を主神と祀る産土(うぶすな)の社であったが、神功皇后摂政十三年に誉田別尊が敦賀の氣比神宮へ参拝された折、武内宿禰を織田へ遣わし、兄忍熊王を敬慕して劔大神に合祀したと伝えられている。この由緒によって、忍熊王の父足仲彦尊(仲哀天皇)と弟誉田別尊(応神天皇)の2柱を当社に合祀し敬い祀ることとなった。

 

 

 

 

 

織田一族発祥地

 

 

越前町織田は、織田信長の祖先が荘官として、また劔神社の神官として神社に仕えてきたそうです。


 

 

 

 

 

 

顔ハメました爆  笑

 

 

 

 

 

子寶さま

 

 

 

 

 

 

庚申宮

 

文武天皇の御代に疫病が流行したので、護摩祈禱をしたところ青面金剛が現れて疫病を鎮めると約束した

 

その日が庚申の年・庚申の月・庚申の日だったため、庚申の日になると花や燈明をともして一晩を過ごすのが習わしとなった

 

 

 

 

 

祭神 
猿田彦大神

 

 

 

 

 

 

北の鳥居

 

境内の西側は社叢になっていて、早春にはカタクリが咲くそうです。その頃にも来てみたいですね。