覚え書きとして。
長いです。
亡くなった母は86才、3月18日に87才になるはずでした。
兵庫から熊本にお嫁に来てからも学校で習った大好きな洋裁を続けていました。
お針子さんとして働いて、そのあと自宅で注文服を作っていました。
お盆やお正月前は徹夜で、我が家はお節料理で明けましておめでとうございます、という感じではありませんでした。
旅行前も徹夜でお客様のができたあと、自分の服も作っていました。
私たち姉妹の服ももちろん手作り、私と妹はほとんどお揃いだったり色違いだったり。
ホットパンツやパンタロンもいち早く着ることができました
この頃の思い出は NHKの朝ドラ「カーネーション」そのまま
そして妹尾河童さんの「少年H」では紳士服店を営む父親の 作業台の上で生地を切る裁ちばさみの音が本当にそのまま記憶に残っています
37歳で、念願の自分の店を持つことができました。私が小5の頃です。
その後、店の裏に小さな家を建て増し、みんなで引っ越しました。
私が中学卒業の頃です。
(おかげで高校へは歩いて5分になりました。)
昔の写真を思い出すと結婚してからもよそ行きはほとんど母が作った服です。
「もう少しウエスト細くして」と言っても「あんたはこのくらい!」と受け入れてくれません。
そういえばウエディングドレス以外は仮縫いもあまりせず、目分量でサイズがわかるようでした。
そう、ウエディングドレスも勝手に「ちょうどいい生地があったけん取ったよ」とデザインも勝手に
ピンクのレースで、仮縫いしながら、ここをこうして、という感じで作ってくれました。
美容師さんも自分の友達を日田まで連れてきて、ほんとは前髪もう少し〜とか思う間も無く出来上がり。
息子たちの入学式のスーツも紳士服の生地取ったから〜と勝手に
左が長男。私のスーツは妹からの借り物だけどこれも母の作ったもの。
1年後に姉の長男、
4年空いての次男はヘチマ襟で、半ズボンも少し長めです。
この時 私は母が勝手に作ったペパーミントグリーンのスーツです😁
同級生の姉の次男にも、という具合に
同じシルクの生地が存分に使われました
だんだん既製服が安くなり、注文も減ってはいましたが、体型に難がでてくる年代(ウエストが一番大きい、とか)からの注文は相変わらずあり、
6年前、店が道路拡張にかかり、半分下げなくてはならなくなって、よく聞くような御殿が建つほどのお金は出ませんでしたが どうにか建て替えられそうだとなったとき、
80になるし、店をやめるのにちょうどいいかな、と思っていましたが、なんと「店は作るよ
」とあっさり。
まあ、人が来る方がいいからねー、となりましたが、その後はリフォーム中心とは言え、いつも忙しくして、その歳でお金を稼げるってすごいよね、と思ってました
お店はやりかけの裾上げだかウエスト詰めだかのがミシンに置いたまま
お正月にこんなデザインにしたよと見せてくれたリフォームは、まだ仮縫いのまま、
高校の制服を取りに来ると電話があった方には 妹がアイロンをかけてお渡しできました。
そのお父さんは 母からお弁当を食べさせてもらったことがあり、(母はよく工事の人とか配達の人にお弁当やドリンクを買ってあげてたらしい)
電話で母が亡くなったと知り、今度柏餅を持ってくるねと言ってたからとお供えしてくださいました。
母は好きなものしか食べませんでした。
あんこものは好きだけど、ケーキは嫌いで 一口も食べません。
塩鮭が好きなのは知っていたけど、冷蔵庫に残っていた買ったばかりと思われるものは好きなものばかりだったと思われます。
私たちでいただきました。
人参のヘタを育てていたのはシンクロ
私もちょうど豆苗と一緒に並べてました
救急病院から戻ってきた遺品にあった手袋は
このレシートのものだと思います。
もう1つが何かわからないけど。
新しい手袋といい、エステの予約といい、まだ元気に生きる気満々でした
体調が思わしくない時もありましたが、持病もなく、30代くらいに子宮ガンと胃がんをしていて入退院を繰り返していたので病院嫌いでその後は必要最低限しか通院もしていませんでした。
私の病院嫌いもその影響でしょう
だから、施設に入ったり、入院したりという最後を選ばなかったんだと思います

父は病院で、何も食べさせられない最期でかわいそうでしたが
病院大好きで 何かあるとすぐ病院に行っていたから、みんなで看取ることもできて、まあそれも選んだことなのかもしれません

おととい近所の友達のお母さんが96歳で亡くなりましたが 5年間寝たきりで 実家のお姉さんがお世話をされました。友達も毎日夕方手伝っていました。
大変だっただろうけど、それだけのお別れの期間が必要だったのかもしれません。
それぞれにお別れの仕方はちがうんだなあと思いながら、
どれがよくてどれが悪いはないんだと思います✨
「金は天下の回り物」と言い、家計簿もつけてなかったけれど、お葬式代は払えました。
(確定申告の時、仕事で経理をしていた父が母の申告もしていましたが、領収書がない、とよくケンカしてました
)
そんな自由な母ですが、父の方のばあちゃんが寝たきりになり引き取った時は仕事をしながら面倒見てました。
まだ紙オムツなどなく、大きなシーツのようなオムツを 出始めの全自動洗濯機を買って 洗っていたのを覚えています。
兵庫県のお兄さんが町議会議員に出る時は 頼まれて応援演説に何度か行きました。
学校や地域の役員もしていたし、私たちにも習い事をたくさんさせてくれました。
家族で川遊びをするときも黄色い水着を着て、本気でした
(昔の手術痕は大きいので 胸の間から胃ガンの傷がちょっと見えていました)
母との思い出話は全部笑いながらです
お正月に姉が電話の操作をミスして 母と叔母の会話が留守電に30分?録音されていました。
それを消さないと 留守電が入らないので 所々 ボイスレコーダーに入れてみました。
私は、
絵や字を書くのが好きで看板屋さんになりたかった父と、
好きなことを仕事にしてきた母、
両方の影響をしっかり受けています。
この機会にまたこれからのことも考えてみようと思います
つづく、かも。





