トールグラスの中に泡がはじけ、カウンターの向こう側に女の表情が微かにゆがむ。次の瞬間、海の底のように静かに流れていた店内の空気が硬直した。
ワタシ ニンシンシタノ。
「だって、避妊していただろう」
呆然と問いかける男に、女は涙をたたえた大きな瞳でじっと見つめて、ととどめをさした。
アナタノ 子 ヨ。
男は女としばらく何かを話していたようだ。
気がつけば女は一人でカウンターの端に座り、次のカクテルを注文するために、グラスを磨く僕に視線を投げかけていた。
「何かお作りしましょうか?」
チョコレートリキュールと生クリームを使ったカクテルは、まるで女そのものだった。甘く、柔らかく、とろけそうに大きな瞳。ふんわりと巻かれた髪。薄い桃色の唇についたホイップクリームをペロリとなめながら、肩をすくめて笑顔でこちらを見上げる。
「ああ、おいしい。幸せ」
僕はこの店で働いていることに誇りを持っている。中には所謂「同伴」や「アフター」まがいの事を暗に要求してくる客もいる。その度に慎重に、丁寧にやんわりと断りつつも、遅々として改善されない「バーテンダー」という職業にたいする社会的認知度の低さに、僕は心の中で密かにため息をつく。
けれど、中にはほんの数人、心を動かされる客がいるのも事実だ。こんな人と店がひけてからプライベートで過ごせたらいいなあと思う客もいる。もちろんそんなことは禁止されているのだけれど。
その中の一人が彼女だった。本当に美味しそうに僕の作った酒を飲んでくれる、その笑顔の魅力的なことと言ったら。優しく控えめな話し方に上品で柔らかな物腰。僕はいつも隣に座っている男を撲殺したくなるような気分に追い込まれながら、必死で愛想笑いを顔に張り付かせていた。
「えっとね、次は……うーん。どうしようかな。何かオススメってありますか?」
「お連れ様は?」
「今日は先に帰っちゃった。」
ペロリと舌を出して微笑みを返す彼女の鎖骨のくぼみには、小さなダイヤモンドが一粒輝いている。
隣の男の視線を気にせずに彼女を一対一で接客できる喜びを奥歯で噛みしめながら、さりげなく自分のオリジナルカクテルが載ったページを開き、女の前に差し出す。半貴石のような薄紅色に光る爪がメニューを受け取る。
その瞬間思い出して、つい口に出してしまったのだ。
「あ、あの……でも、あまり飲まれると、お腹に……」
「……聞いていたの?」
「申し訳ありません。つい耳に入ってきてしまいまして。……なので、今日はこれくらいにしておきましょうか。」
女はゆっくりと視線を落としていった。
ああ、失敗した。プロとして、盗み聞きしていたなんてことを言うのはやはり軽率だった。僕は慌てて取り繕うように言葉を重ねる。
「よろしければノンアルコールのカクテルをお作りしますよ。」
「……」
女はうつむいたまま、何かつぶやいた。
「え?」
胸元のダイヤモンドがきらりと光る。
「嘘に決まってんじゃん」
「何がですか?」
「あんなの嘘に決まってんじゃんって、言ってんの!」
バサリと髪を振り上げて、こちらを見据えた女の表情は恐ろしいほどふてぶてしいものだった。口元は醜悪にゆがみ、瞳はギラギラと僕を睨み付ける。スツールの小さな背もたれにドサリと体を投げ出した。まるで別人だ。
「嘘よ嘘。妊娠なんて嘘。別れ話を持ち出してきたから、言ってやったの。あっちは本気にしているようだけど。そんなことよりマティーニ作ってよ。私、本当は甘ったるいの、苦手なの」
店じまいをした後、僕は緑色のリキュールが入っている酒瓶を取り出して、トニックウォーターや氷と一緒にグラスに注ぐ。
秘薬としてフランスの修道院で作られたこの酒は、400年の時を経て今に残る。その製造法は伝承されたたった数人の手によって、門外不出のレシピとして守り続けられてきたのだ。
軽くステアされたグラスを口元に運ぶと、薬くさい、独特のにおいが鼻をつく。いつの頃からだろう。この世界に入ってから、疲れると決して旨くはないこのリキュールが無性に飲みたくなるようになった。130種類使われているというハーブの何とも言えないにおいが口の中にもひろがり、滑り落ちていく冷たい液体を後追いするように、食道が熱を帯び始める。グラスの内側には、炭酸の白くまるい粒がびっしりと張り付いては、浮き上がり消えていく。僕はカウンターに突っ伏すと、豹変した女の胸元ダイヤモンドの光を思い出していた。
written by 織部桃