「あの人もこの人も大した差はない」
きらくみさんの
これらの本を読んで
本当にそうだなと
思ったことがあります。
それは
「特別をつくらない」
ということです。
どういうことかというと、
たとえば、
「よそ行きの服」とか
「普段着」とか
「家着」とか
着ている服って、
その時々の状況によって
使い分けていると思うんですね。
それが
良いとか悪いとかではないのですが
そうやって、
自分の中で
ランク付けをしてしまう
てことがあると思います。
「あれは上で」
「これは下」
みたいな。
これまでは
「よそ行きの服」だったのが
これからは
「家着」に降格みたいな。
そうやって、
「上」とか「下」で
ランク付けするクセがついてしまうと、
そのつもりがなくても、
世の中全般に置いて
そう観てしまうようになるのです。
そうするとどうなるかというと、
「特別」なもの
が自分の中に生じてしまうんですね。
これも別に
良い悪いはないのですが
「特別なもの」と
「そうではないもの」という風に、
本来「ない」ものを
あるかのように考えてしまうので、
それが悪さをすることが
よくあるという話です。
ウエダミツトシです
こんにちは
人って
「特別なもの」に
憧れというか、
なんか良さそう
みたいなイメージを
持っていると思いますが、
それでも別にいいんですけど、
「特別なもの」を作ってしまうと、
それと同時に
「特別じゃないもの」
つまり
「凡庸なもの」も
作ってしまうんですね。
特別なものと
凡庸なもの
これらって
それ自体が特別で
凡庸というわけではなくて、
それを見ている人が、
「これは特別だ」
「これは凡庸だ」
みたいに判断しているだけなのです。
つまり、
見る人によって
見る角度によって
同じものであっても
特別なものにも
凡庸なものにもなりうる
ということですね。
だから本来は、
どんなことであれ、
違いはあれど、大した差はない
と思うのです。
何かを「特別」というのなら、
それ以外は
「凡庸」かというと、
そうではなくて、
それらもすべては
「特別なもの」となり、
「特別」しかないのなら、
すべては「普通」でいいんじゃないかと
思うわけです。
ただ、
「それ」なだけ。
「特別性」というのは、
イマジネーションの産物であって、
事実ではないのです。
それを知って、
「特別」という言葉を使うのなら、
全然モウマンタイなのですが、
本当に
「特別なもの」と
「そうではないもの」が
あるという前提で
世の中を見渡してしまうと、
「上」とか「下」とか
「優れている」とか「劣っている」とか
そういう色眼鏡で
見てしまうと思うので、
事実とは
どんどんかけ離れていってしまうと思います。
「あの人は特別だから」
「それに比べて私は全然ダメ」
みたいな思考に
なっていっちゃって、
それで
自分で自分の価値を
下げてしまうのです。
逆も困るけどね。
「オレは特別で」
「コイツらは全員カス」
みたいに、
尊大になられても困るけど、
どちらかというと、
自分を下げてしまう人のほうが
多いような気がします。
ノーデータです。
あくまで俺の感覚ね。
エビデンスはないでんす。
それで、
そうやって
自分で自分の価値を下げてしまうと、
何が起こるかというと、
目の前にチャンスが来ていてもスルーしてしまうこと
が頻発すると思うんですね。
「私には無理」とか
「まだまだ私なんぞが」
みたいに思ってしまって、
せっかくのチャンスを
他人に譲ってしまったり、
そもそも
自分のことじゃないと思って、
気が付かなかったりと、
そういうことが起きてしまうと思います。
あとは、
必要以上に謙る(へりくだると読む)
みたいなことですね。
エビです。
エビデンス。
いやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいや!!!!!
と言いながら、
エビ以上に
後ろのほうに
後退りしていってしまう。
俺もよくやっていたんで、
というか、
いまでもよくやってしまうんで
人のことは言えんのですが、
誰かを特別視することで自分を下げて、却ってその人との距離をつくってしまう
のです。
「私なんぞが」
という言葉が出てきたら
要注意です。
「私みたいなものが、
あの人の近くに行ってはいけない」
みたいな思いが働いて、
本当は
近づいて
仲良くなりたいのに、
自分から距離を作ってしまって、
「仲良くなれないなぁ」
なんて思ってしまうのです。
おーーい!!! 勝手にエビるなーーーー!!!
という話ですね。
これって、
逆を考えたらわかると思うんですけど、
普通に話していて、
「いえいえ、私なんぞが」
って言って
去っていかれたら
どう思います?
ちょっとさみしくない?
こちらとしては
1ミリも
「お前なんぞが」
って思ってないのに、
サササッと
後退りして行かれたら、
中には、
「あれ、私のこと嫌いなのかな」
って思ってしまう人も
いるかもしれませんよ。
天皇陛下でもない限り、
世の中に
「特別な人」はいません。
誰かを「特別な人」と言うのなら、
自分も特別な人です。
あの人と自分とは
違う人間だけれど、
だからといって、
大した差はないのです。
だから俺は、
自分の中に
特別を作らない
ということに決めています。
どんなにすごい人であっても
あの人だけが特別というわけではないし、
自分にだって
すごいところがあってもいい、
というか、
きっとある。
きっと来る。
貞子が来る(たしかにヤツは特別だった)
世の中に
物怖じしない人っていますよね。
ああいう人たちって、
物怖じしないのではなくて、
誰に対しても
「特別な人」設定を
していないんだと思います。
だから、
対等に付き合える。
そして、
そうしたほうが、
相手からも喜ばれるのです。
勿論そこには、
相手に対する礼儀と尊重は
必要です。
でもこれは、
日本人だからこそなんだと思いますが、
相手を尊重するということが、
自分を下げることと同義になっちゃってる人が
とっても多くて、
勝手に
「ヒエラルキー」を
つくっちゃってるんですね。
だから俺は、
それってなんだか変な話だなと思って、
「特別」をつくることを
やめました。
気がついたら
クセでやっちゃってるけど、
できうる限り
それはしないようにしています。
どんなにすごい人がいても、
あの人は特別ではなくて、
自分とは違う人なだけ。
大した差はない。
だから、
怖気づく必要はない。
そうすると、
自然と
ご縁って広がっていくと思うので、
自分の中に特別をつくらない
ということを
実践してみるといいと思いますよー。
冒頭の話の場合だと、
「よそ行きの服」とか
「家着」とか
そういう風に分けずに、
いつでもどこでも、
自分が着たい服を着る
といいと思います。
今日誰とも会わなくても、
自分が着たい服を着て、
在りたい自分でいる。
そういうことを習慣にしていくと、
誰がいても
物怖じせず、
そして、
相手に対する礼儀と尊重の態度で、
他人と関われるようになると思います。
価値があるとかないとか、
上とか下とか、
優れているとか劣っているとか、
それらはすべて、
頭の中の
イマジネーションの世界の話であって、
その人の思考の中にしか存在していません。
そこに実在しているのはただ、
同じ人間がいる
ということだけです。
それ以上でも以下でもない。
だったら、
自分を下げて、
必要以上に
へりくだらなくても
いいんじゃないかと思いますよ。
毎日、
誰と会おうが
会うまいが、
どこにいようが、
自分の着たい服を着て、
在りたい自分でいよう。
特別なものをつくることなかれ、だわ。
特別を求めるその裏には、
欠乏感があるけんね。
その欠乏感が間違いだと
気付けるといいですな。
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