前編では、「江戸三森・江戸七森・江戸八森・江戸廿一森」と称される神社群を整理しました。後編では、これらの呼称が本当に江戸時代から存在していたのかを、文献資料から検証していきます。
江戸時代の本に無い
まず結論から言えば、国立国会図書館デジタルコレクションなどで江戸時代の地誌・名所案内をいくら探しても、「江戸三森」や「江戸廿一森(二十一森)」という言葉そのものは見当たりませんでした。
江戸名所図会、御府内寺社備考、新編武蔵風土記稿など、江戸の神社や名所を扱った主要資料を見ても、「○○の森」という個別名称は頻出するものの、それらの数で括った総称は登場しません。
明治以降に現れる江戸七森
ところが時代が下り、明治期以降の文献を当たると様相が変わります。確認できた範囲では、最も古いものが明治40年(1907年)、新しいものでも昭和後期(1980年代)、この間に刊行された書籍の中に、「江戸七森」「江戸八森」という言葉が断片的に現れるようになります。
考古界 (1907)
江戸八森として「宮戸森(淺草神社)、烏森(ウノモリ)、櫻森、宮戸森、嬉森、杉森・柳森・烏森(カラスモリ)」
専売協会誌 (1913)
江戸八ツ森稲荷として「烏森・杉森・柳森・初音森・櫻森・宮戸森・鵜森・嬉森」
国文学:解釈と鑑賞 (1957)
江戸七森として「雀の森、烏の森、杉の森、鷺の森、吾妻の森、水神の森、嬉の森」
東京歴史散歩第7集 (1967)
江戸八森として「椙森、柳森、初音森、竹森、嬉しの森、雀森、烏森、桜森」
日本橋小伝馬町周辺今昔史 (1981)
江戸七森として「竹森、椙森、烏森、初音の森、柳森、あづまの森、笠森*」
はやり唄の女たち (1982)
江戸八森神社として「杉の森、柳森、烏森、初音森、宮戸森、桜森、嬉森、鵜森」
日本橋・京橋地区に所在する全神社の由来に関する実地調査(1987)
江戸七森として「竹の森、椙の森、烏森、初音の森、柳森、あずまの森、笠森*」
このように各書籍にて江戸七森・八森が名稲荷的に紹介されています。ただし、ここで重要なのは、どの資料もこれが正しい七森・八森だとは断定していない点です。
元々定まってなどいない
同じ「江戸七森」「江戸八森」を扱っているにもかかわらず、文献ごとに挙げられる神社の顔ぶれは微妙に異なります。
ある本では竹森が入り、別の本では外れ、ある本では吾妻森が入り、別の本では鷺森が加わる。さらに注意深く見ていくと、神社の整列順が同じだったり、表現が酷似しているといった例もあり、先行資料を参照した可能性(いわゆる孫引き)も否定できません。
つまり、七森・八森という括りは、江戸時代からあった信仰の形態というより、近代以降に編集・整理された「まとめ方」として広まった可能性が高いのです。
選ばれなかった同格の森
ここで改めて考えてみます。もし「神の宿る森」が、
・古社である
・霊験あらたかである
・歴史上の英雄と縁を持つ
といった理由で選ばれていたのだとすれば、江戸には同等、あるいはそれ以上の条件を備えた神社が数多く存在します。
前編で掲載した【江戸の森65ヶ所】がそれに当たるのですが、詳細に調べてみると、太田道灌や藤原秀郷、源頼朝、日本武尊などと関わりを持つ神社は、七森・八森に含まれないものも含めて、枚挙にいとまがありません。
また藤原秀郷や太田道灌が関り、なおかつ鎮守の森を形成した神社を列挙すると、根津神社(巣盞雄の森)・亀塚稲荷神社(亀塚の森)・赤城神社(赤城の森)・鎧神社(鎧の森・兜の森)の5つに及び、「なぜあちらは選ばれ、こちらは選ばれなかったのか」という問いに、明確な答えを見出すことはできません。
仮定と誤記の伝播
桜森稲荷
今回検証したことでわかったのが、桜森稲荷はおそらく明治には廃止されていたこと。桜森として挙がる蔵前神社には、過去の社号・伝承において森にまつわる由緒や説話が存在しない。ご祭神や境内社に、この桜森稲荷が合祀されている事実が無いことから、桜森を蔵前神社としているのは誰かが「蔵前」という地名から近くにある蔵前神社と仮定していたものが通説として広まっていた可能性が出てきた。
笹森稲荷
そしてもうひとつ、笹森は“笠森”の誤記ではないかということ。実際に文献を当たったところ、七森の構成に笠森お仙で一躍有名になったあの「谷中の笠森」が入っているのに、文献を参照したと思われる竹森神社の由来書きには谷中の“笹森”としてあり、ほぼほぼ神社側の誤記である可能性が高い。これを参照しているだろうと見たのは七森の掲載順と、おおよその文脈が一致している。笹森とされる真島稲荷神社が江戸七森や八森を構成する時代より遅い大正の創建である点から、誰かが「谷中」にあって森を構成している真島稲荷神社を独自に比定した説が広まったと見ることができる。
『日本橋小伝馬町周辺今昔史』『日本橋・京橋地区に所在する全神社の由来に関する実地調査』
三森の成り立ち
江戸の森の骨格となる三森において興味深いのは、「江戸三森」の語が登場する書籍において16冊が椙森神社、残りの2冊が烏森神社の説明に“江戸三森のひとつといわれる”と言葉を添えているだけで、三つの森が何なのかは触れられていません。
また考証の正確さと網羅的な情報量で知られる江戸の地誌『江戸名所図会』に江戸三森の言及が見られず、書籍で確認ができるのは1970年の『志ん生長屋ばなし』。江戸七森が最初に確認できるのが1907年の『考古界』。比較的近年に生まれた概念と言えそうです。
見えてこない廿一森
今回の検証で、特に顕著だったのがこの3点。
■江戸三森
文献上にその呼称は見られないものの、各社の“森の存在”について記述がある
■江戸七森・江戸八森
明治以降の文献に散発的に登場
■江戸廿一森
そもそも文献上の用例が確認できない
国立国会図書館デジタルコレクションを通して調査した限り、「江戸廿一森(二十一森)」という言葉自体が使われている資料は見当たりませんでした。
七森・八森という既存の括りに、後から「森」の名を持つ神社を足し合わせ、二十一という数にまとめた。そう考える方が状況としては自然に思えます。
それでも森はあった
では、「神の宿る森」という概念自体が虚構なのかといえば、決してそうではないでしょう。江戸の町には、社叢そのものが信仰対象となった森、地名として記憶された森、人々の畏敬を集めた森が確かに存在していました。
ただしそれらは、必ずしも数で括られ、固定されたリストとして共有されていたわけではなかったのです。
まとめとして
江戸の森をどう捉えるか、今回の調査を通して見えてきたのは、次のような姿でした。
■「○○の森」と呼ばれた場所や神社は、江戸に数多く存在した
■江戸七森・江戸八森は、近代以降に一定の整理がなされた可能性が高い
■江戸廿一森は、文献的裏付けに乏しく、後世の編集による括りと考えられる
「神の宿る森」という言葉の響きは、神秘性も相まってか魅力的に感じられますが、その魅力ゆえに、後から意味や数が付け足されていった面も否定できません。
調べていくことで、伝承は薄れるどころか、むしろ立体的に見えてきます。江戸の人々が、どの森を恐れ、どの森を敬い、どの森を語り継いだのか。それを一つずつ拾い上げていくことこそが、「江戸の森」を知る本当の入口なのかもしれません。
参考:江戸名所図会・燕石十種・東京都神社名鑑・東京都神社史料・港区史・考古界 6(7)・専売協会誌 (8)・国文学 : 解釈と鑑賞 22・東京歴史散歩 第7集・日本橋小伝馬町周辺今昔史・はやり唄の女たち・日本橋京橋地区に所在する全神社の由来に関する実地調査・江戸東京博物館デジタルアーカイブス「東都古社桜森稲荷首尾松専売局東京第三製造所構内」ほか各社由緒書




