今回の参詣は、渋谷区猿楽町にある猿楽神社へ。
ここはブティック、カフェ、レストラン、洋菓子店などが多く、おしゃれなイメージの代官山エリア。
地名由来は、鎌倉時代に代官役所があったからとか、江戸時代の代官所有の山があったからともいう。
渋谷と目黒の区境「鎗ヶ崎(やりがさき)」交差点から、旧山手通りを北西に200メートルほど進んだところ。
30年もの歳月をかけて建築された複合商業施設「ヒルサイドテラス」の中庭、ここに突如として木が茂った小高い丘が見えてくる。ここが猿楽神社の鎮座地であり、古くは死者を埋葬した墳墓だったといわれる猿楽塚。
猿楽塚 さるがくづか
江戸名所図会では、渋谷金王丸(桓武平氏秩父氏の支流)の「斥候塚(ものみづか)」として当地が登場する。斥候(せっこう)は「監視」の意味で、かつてはこの程度の高さの塚に登るだけで2~3里(8~12km)先まで見渡せ、富士・筑波・関東圏一帯の山岳が見渡せたのだそう。
また猿楽塚とも称するのは、ここで猿楽興業があり、見物人が登った「物見塚」だったからとする説が紹介されている。
参道の階段は丁寧すぎるくらい良く舗装されている。
由来
境内掲示より字体改行などそのまま記載
猿楽塚(さるがくづか)
猿楽町29番 ヒルサイドテラス内
区指定史跡 昭和五十一年三月二十六日指定
ここにあるこんもりした築山は、六~七世
紀の古墳時代末期の円墳で、死者を埋葬した
古代の墳墓の一種です。
ここにはその円墳が二基あって、その二つ
のうち高さ五メートルほどの大型の方を、む
かしから猿楽塚と呼んできました。
この塚があることから、このあたりを猿楽
といい、現在の町名の起源となっております。
ここにある二基の古墳の間を初期の鎌倉道
が通っていて目黒川にくだっていました。
渋谷区のように開発が早くからはげしく行
なわれた地域に、このような古墳が残されて
いることは非常に珍しいことです。
渋谷区教育委員会
20段ほどの階段を上がった先にお社が見えてくる。
古代の墳墓というと、それなりの地位にいた者を埋葬してあるのだろうけど、それにしては小さすぎる気もする。
また神社の御由緒に円墳が二基あると記されていたけど、塚はこれ以外見当たらない。
猿楽神社
神社そのものは大正年間(1912-1926)に、東京府議会議長や渋谷区議会議長を歴任した朝倉虎治郎氏が創建、管理していた。当朝倉氏は、甲州武田家の旧臣と伝わり、ここから南に80メートルほどのところに大正八年(1919)に建てられた、旧朝倉家住宅が重要文化財として残っている。また渋谷氷川神社の社号標奉納者に虎治郎氏の名があり、金王八幡宮とともに崇敬されていた。
祭神
祭神は天照皇大神、素戔嗚尊、猿楽大明神、水神、笠森稲荷。
虎治郎氏は、ここに四基あったうちの一基を壊して庭園を造ったところ、虎治郎氏と造園業者が奇病に罹ったため、出てきた人骨や武具を別の塚に納めて「猿楽様」の宮居を作ったという。おそらくこれが「猿楽大明神」なのだろう。
御由緒
境内掲示より字体改行などそのまま記載
猿楽神社縁起
古よりこの地に南北に並ぶ二基の円墳があり。北側に
位置する大型墳を猿楽塚と呼称している。この名称は、
江戸時代の文献「江戸砂子」「江戸名所図会」等にも見ら
れ、我苦を去るという意味から、別名を去我苦塚と称し
たとも言われている。六~七世紀の古墳時代末期の円墳
と推定され、都市化その他の理由により渋谷区内の高塚
古墳がほどんど煙滅したなかで、唯一現存する大変貴重
な存在であり、昭和五十一年三月十六日に、渋谷区指定
文化財第五号に指定された。
この地に移住する朝倉家は戦国時代からの旧家であり、
遠祖は甲州の武田家に臣属し、後に武蔵へ移り、中代よ
り渋谷に住み、代々、無比の敬神家として、渋谷金王八
幡宮と氷川神社の両鎮守への参拝を常とし、また氷川神
社改建の折にも尽力している。
朝倉家では、大正年間に塚上に社を建立し、現在、
天照皇大神、素戔嗚尊、猿楽大明神、水神、笠森稲荷を
祀り、二月十八日、十一月十八日を祭礼日と定めて、
建立以来、一族をはじめ、近隣在郷の信仰を集めている。
平成十四年十一月十八日 朝倉徳道 撰
社殿左隣にも石製の祠、その足元には「南無妙法蓮華経」と「馬頭観世音菩薩」と刻まれた石碑がある。
絵馬
傍らの絵馬所には猿楽神社の絵馬が。当社には社務所が無いので、兼務されている渋谷氷川神社(渋谷区東)で頒布されているのだろうか。
写真はすべて2017.08.20 撮影
備考
社号 猿楽神社
祭神 天照皇大神 素戔嗚尊 猿楽大明神
水神 笠森稲荷
創建 大正年間(1912-1926)
祭日 2月18日、11月18日
末社
社務所
所在地 東京都渋谷区猿楽町29−9
その他 ヒルサイドテラス内
渋谷氷川神社の兼務社







