今回の参詣は、千代田区神田小川町の五十稲荷神社(ごとおいなりじんじゃ)へ。

ここは靖国通り「小川町」交差点から300mほど西側。付近の神田神保町や駿河台など、再開発でできた巨大ビルに囲まれ、ここも今かと静かに待っているような雰囲気。

 

 

 

栄寿稲荷神社 えいじゅいなりじんじゃ

当社は鳥居の扁額や御由緒、境内の幟にも「五十稲荷神社(ごとおいなりじんじゃ)」とあるけど、千代田区教育委員会「千代田の稲荷」によると、栄寿稲荷として記載があり、五十稲荷は縁日からとった俗称とのこと。しかし宗教法人名は「五十講」。

 

 

 

 

狐像1

境内右側にある。

右が宝珠を咥え、左が巻物を咥える。

 

 

 

 

前回訪問したのは、9年前のちょうど今頃。

その時は、ちゃんと耳が揃っている。

 

 

 

 

狐像2

社殿前にある。

狐像1と同じく、右が宝珠を咥え、左が巻物を咥える。

 

 

 

 

由来

千代田区教育委員会「千代田の稲荷」より

栄寿稲荷神社は慶長年間(1596-1615)に京都伏見稲荷大社から分霊して祀られたのが発祥とされ、安産の利益があるとして徳川家からも信仰されていたと伝わる。

正徳年間(1711-1716)に当社の敷地が戸田長門守家の邸宅となり、同家の領地であった下野国足利の稲荷大神(足利市雪輪町の雪輪町稲荷神社)を合祀して屋敷神として祀られていた。足利の織物市が五・十日に開かれていたことに由来して、江戸邸では五・十日に月並祭、この両日と初午には屋敷の門を開放して一般の参詣者を招き入れたことから「五十稲荷」と俗称されるようになった。

 

 

 

 

御由緒

境内掲示より字体改行などそのまま記載

五十稲荷神社由緒

御祭神 倉稲魂命(食物を司る保食神)

例大祭 四月十五日

 創祀の時代は詳らかではなく、慶長の頃(西暦一七〇〇頃)既

に当地に御鎮座され、徳川家に於いて安産守護神として篤く崇

敬せられたと伝えられています。

 正徳の頃(西暦一七五〇頃)栃木県足利の戸田長門守が当地を

拝領し、屋敷を構えるに及び、当社地もその邸内に入り、戸田家で

当地の鎮守として奉祀され、故郷の足利市雪輪町旧御陣屋大門

に奉斎されていた稲荷大神(現 雪輪町稲荷神社)も合わせ祀り、

栄寿稲荷大明神と崇め奉り、崇敬の誠を尽されたのであります。

 当社は昔から 「五十稲荷」 といわれていますが、起源は古く

戸田領足利で織物の市が五と十のつく日に開かれるのが慣わし

であり、江戸の戸田邸でもその繁栄を祈願する為に、毎月の祭

事を五と十のつく日に執り行い、月々の祭日と二月の初午祭に

は門戸を開放し、諸人の参詣を許しました。

 明治になり、廃藩置県制度により大名屋敷が町屋となり当社

の御祭祀も崇敬者等により承け継がれ、一年を通し毎月五と十

のつく日には多くの参詣があり、後には縁日が立ち「五十様の

縁日」と呼ばれ、東京市内でも有名になり、俗称として「五十

稲荷」と呼ばれるようになりました。

 当社の公の社号は「稲荷神社」であり、明治五年に公認の「神

社」として列格致しました。

 大正十二年(西暦一九二三)の関東大震災迄は現在地のすぐ横

に約二百坪の境内地がありましたが、震災後の東京市土地区画

整理により、現在の地に縮小移転させられました。

 平成七年五月吉日 記

 

 

 

 

平成28年(2016)春から新社殿の改築事業がスタートする予定だったみたい。

グーグルマップで確認できる2018年4月時点では、まだ改築は始まっていない模様。

 

 

写真は200807.19(狐像)、2017.07.16(その他) 撮影

 

備考

社号 五十稲荷神社

別名 栄寿稲荷神社

祭神 倉稲魂命

創建 慶長年間(1596-1615)

祭日 二月初午近くの吉日または4月15日

末社

社務所 常時不在か

所在地 東京都千代田区神田小川町3-9

その他