今回の参詣は、新宿区西早稲田にある水稲荷神社(みずいなりじんじゃ)へ。

ここは都電荒川線面影橋駅と早稲田駅の中間に位置し、当社は早稲田大学キャンパスの西側、旧御三卿清水徳川家の屋敷「甘泉園」に鎮座する。新宿区の稲荷神社では、花園神社に次いで大きい。

 

 

 

堀部安兵衛之碑

階段を登った先には、赤穂四十七士随一の剣客堀部武庸(安兵衛)の記念碑がある。最も有名なのは”仮名手本忠臣蔵”の題材となった吉良上野介邸への討ち入りだが、安兵衛はここ高田馬場の決闘において助太刀として参戦し、広く名を馳せるきっかけとなった。当時の高田馬場は、現在の高田馬場駅より東側、住所表記では当社と同じ西早稲田に当たる。

 

高田馬場

中世、治承・寿永の乱(1180-1185/所謂源平合戦)においては、源頼朝が隅田川よりこの地に入って軍勢を揃え、永禄十二年(1569)三増峠の戦い(甲州武田氏による小田原北条氏攻め)においては武田信玄が馬を試みた旧跡と伝わる。馬場が作られたのは江戸時代初期とされるも、古くからすでに馬場のようなものがあったのかもしれない。今に伝わる穴八幡宮の流鏑馬も、徳川将軍家によって高田馬場にて行われていたものが、八幡に継承されたもの。

 

 

 

手水舎

参道右脇の甘泉園入口を過ぎると右手側に手水舍が見える。

「御大典記念 水稲荷 氏子中 平成三年九月吉祥日

第九区三番組 若衆会中」とある。

 

 

 

大国社

手水舎の左にあり。

 

 

駒繋松

さらにその左側には太田道灌駒繋松がある。

駒は馬のことなので、道灌の愛馬を繋ぎ留めた松(の子孫の松だろうか)。ここら一帯は山吹の里伝説が残る地域。詳細は高田氷川神社の「山吹之里碑」の項(ページ最下部)にて。

 

 

 

手水舍に向かった時に、背面に水稲荷の御社殿がある。

この御社殿を見て、京都旅行をしたことがある人ならばすぐピンとくることだろう。当社の御社殿は伏見稲荷大社の御社殿によく似ている。

 

幾度も参拝している伏見稲荷だけど、御社殿の写真は意外と撮ってなく、唯一あったのは2年前の本宮祭のもの。夜の写真で、しかも人が多すぎてややわかりにくいかも。

 

 

 

遷座の記

さて、参拝の前にもう一つ。境内右側に「遷座の記」碑がある。

この碑に旧神宮少宮司田中喜芳謹書とあり、氏は伊勢神宮の16代目少宮司。16代目というとずいぶん代数が少ないと感じるが、明治時代以前は臨済宗神護山慶光院(尼寺)の社僧慶光院比丘尼(または慶光院伊勢上人とも)が、それ以前は斎宮が護持したが故。

ちなみに京都賀茂別雷神社の宮司、田中安比呂氏は喜芳氏の四男。

 

 

 

狐像

向かって右側が宝珠を咥え、左が巻物を咥える。

 

 

 

拝殿

拝殿内の様子も伏見稲荷によく似ている。水稲荷は三座、伏見は五座。

当社は富塚稲荷や高田稲荷と称していたが、元禄十五年(1702)年、神木の椋(むく)のもとから水か湧き出るようになり、目を患う人がこの水で目を漱ぐと治ったことから水稲荷と呼ばれるようになったのだという。椋は戦災で焼失してしまったが、切り株が保存されている(非公開?)

 

由来

由緒がないので、江戸の地誌・江戸名所図会と砂子の残月(江戸砂子の増補)を参照すると、承平年中(931-938)藤原秀郷が平将門討伐の際に毘沙門堂に戦勝祈願をし、天慶四年(941)稲荷を勧請したと伝わる。その後文亀元年(1501)に扇谷上杉家当主上杉朝良が霊夢により宮居を興したといい、永正四年(1504)に関東管領山内上杉氏に降伏し、河越城から江戸城へ隠居した朝良の来歴とほぼ一致している。天文十九年(1550)には牛込時国が再興したと伝わる。

 

 

 

江戸名所図会 高田稲荷明神社

右ページの中央左に高田稲荷(水稲荷)、その上に冨士山(富士塚)、右に浅間、左ページ中央に毘沙門堂が見える。

宝泉寺は現在早稲田大学の南東にあり、水稲荷の別当だった。

 

 

砂子の残月より

高田稲荷 別当天台禅英山宝泉寺、当社は始め尤旧し 文亀元年辛酉上杉治部少輔入道朝良霊夢に依て宮居を再興し戸塚村の地を社領に附らる、当社に古き棟札を蔵す 其文に曰 天文十九年二月廿九日牛込主膳時国再興 別当宝泉坊秀室 大工与左衛門同左衛門五郎

江戸名所図会 上州大胡氏の後裔武州牛込に住して天文二十四年氏を牛込と改むるといふ事其家系及び宗参寺伝記に載たり 依て時代を合せて考るに大胡氏も天文十九年の頃はいまだ牛込氏に改めざりし時也 然れば此時に時国といふは別の人にてあるべし

境内に富士山あり 稲荷のうしろ巖石を畳てその形を模擬す 安永九年庚子に企たりといふ、毎年六月十五日より十八日まで山を開て参詣をゆるす

 

 

 

境内社

 

高木神社

境内右回りで巡るとまず現れるのは、水神社・事比羅神社を合祀した高木神社。

高木神社は、同境内社の北野神社と同じく、早稲田大学の創立者大隈重信が日々信奉したと伝わる神社。

 

 

三嶋大明神

清水家(清水徳川家)の守護神。

 

 

 

境内後方に並ぶのは、右から北野神社と狐穴と富塚遺跡。

 

 

 

北野神社

当社は、大友義乗(義延)が奉祀した大宰府の御分霊で、大友家が断絶後、牛込天神町から遷座。別名高田天神。詳細は江戸二十五天神考察の内の第廿三高田天神にて。

当社も大隈重信が日々参拝したと伝わる神社。

社前の手水鉢には「天神宮御寳前 牛込天龍山眞定院 貞享三丙寅年三月廿五日」とある。

 

 

 

狐穴

この狐穴の小祠が水稲荷の奥宮にあたるものだろうか。古くからこの地に白狐の棲みかがあって、これを狐塚(こづか)と呼んでいたものが、いつしか戸塚と書くようになり、読みも”トツカ”と読まれるようになって、さらに富塚になっていったと江戸名所図会の戸塚の項に記されている。

 

 

 

穴の中

 

 

 

富塚古墳

新宿区の地名・戸塚の町名起源になったという塚で、この丘の後方にも複数のお社と神使狐像がある。

手前の手水鉢には「宝暦十一辛巳歳 二月初午」と刻。西暦で1761年。

 

 

 

水神社

古墳前から見上げると見える八角形のお社。

狐塚の上にも稲荷社が幾つか見えたので、左側から登ってみる。

 

 

 

稲荷大明神・正壽稲荷大神

左の神号は稲荷大明神、右側の社は、2009年参拝時には鳥居と神号額があり、そこに正壽稲荷大神とあった。

 

 

 

さらに塚の上へ。

 

 

こちらは社号や神号はないものの、唯一朱く塗られたお社。

そして何体もの狐像。

 

 

正一位淸照彦那大神

先ほどの朱いお社の左隣。

稲荷の総本社である伏見稲荷大社では、本殿後背の稲荷山におびただしい数の小さな稲荷祠がある。実のところ、それらは割と近代に入ってから生まれた風習で、個人が半ば勝手に持ち寄って築かれた「お塚」と呼ばれる祠群。御社殿が伏見に似ているというだけで、確証はないがこれら狐塚の祠群も、伏見を模しているものなのかもしれない。余談だが、伏見稲荷大社だけでなく、あらゆる稲荷神社でよく見かける千本鳥居もまた、近代に生まれた慣習。

 

 

 

信仰の形態にも流行り廃りといったものがあり、また突如として生まれる習慣もある。ひとたび信仰者の支持を得れば、それらは瞬く間に広まり、あたかも古来から永年続いてきた文化のように勘違いしてしまう。

 

 

 

社務所

一周回って社殿の左側へ。

この時はお留守のようだが、神札や絵馬、白狐の置物、一陽来復の護符などがあった。

 

 

 

耳欠け神狐

掲示によれば、「身体の痛い所と神狐と交互に撫でると痛みがやわらぐといわれます。」とある。この狐の後ろ足を跳ね上げたお姿も、伏見稲荷の”眼力社”のそれに近い姿をしている。当社に伏見稲荷を熱心に信仰する講社があったのだろうか。

 

 

写真は、2009.1.4、2016.1.4 撮影

 

備考

社号 水稲荷神社 みずいなりじんじゃ

旧称 冨塚稲荷・戸塚稲荷(とつかいなり) 高田稲荷

祭神 豊受姫大神 佐田彦大神 大宮女大神

創建 天慶四年(941)

祭日 九月九日

末社 淸照彦那大神 稲荷大明神 正壽稲荷大神

    浅間神社 北野神社 三嶋大明神

    高木神社(琴平大神・高木大神・三島大神・水大神合祀)

社務所 御朱印御守神札授与有(一陽来復護符)

所在地 東京都新宿区西早稲田3-5-43

その他 俵藤太秀郷(藤原秀郷)勧請

 

 

山開き

 

山開きとは、毎年6月の富士山の山開きに合わせて、富士塚を有する神社において斎行される。おおむね6月から7月の間で開かれ、期間は一日限定であったり、三日間程度である場合が多い。当水稲荷神社では、毎年7月17・18日に期間限定で富士塚を一般に開放し、登山・参拝することができる。

 

 

浅間神社

まずは山の麓にある浅間さんへ。

安永九年(一七八〇年)、日行青山藤四郎翁により、富士山山頂の岩や土を運んで、九年五ヶ月かけて築かれた高さ十メートル、江戸市中最大最古の冨士塚。祭神は木花咲耶姫と石長姫尊。

 

 

 

草や木々が多い。特別急な上り坂ではないし、手すりもある。

 

 

 

中腹にある小さな祠。

小御岳大神を祀る。

 

 

 

そして山頂の奥宮。

 

 

てっぺんからは森しか見えない。唯一景色と言えるものは、早稲田大学のキャンパスぐらいか。登頂したら鐘を撞く。

 

 

 

山を降りつつ一周すると、洞穴に到着。そばにある記念碑に、「富士山北口胎内窟模造修築記念」とある。奥が続いているというよりは、富士山にある人穴(富士講の開祖角行が修行した溶岩洞穴)を模しているのか。

 

 

 

洞穴から上を見上げると、そこは塚というより山そのもの。

富士塚の特徴として、岩石を積んで山形にしたもの、コンクリートで補強されたものが多い中、当社は草木の茂る山そのもの。周辺を囲う木々といい、より富士山らしい姿をしている。

 

 

甘泉園

水稲荷の境内から園に入ることができる。抜けた先は新目白通り。

 

 

清掃など手入れが行き届いているけど、なにぶん木々の茂り具合がすごく、日中といえどかなり暗い。

 

 

清水徳川家のお庭っぽさはちょっと感じられない。近隣住民やペットとのお散歩コース的な雰囲気。

3月から10月までは午前7時から午後7時、11月から2月までは午前7時から5時まで開園。入場無料。