今回の参詣は、板橋区氷川町の下板橋氷川神社へ。


国道17号(中山道)と交差する石神井川に架かる橋「新板橋」の南側に鎮座する。

この板橋宿全体の鎮守だった神社。







綺麗に整列した銀杏並木のトンネルを潜り抜ける参道が100mはつづくだろうか。地図で見た境内の広さの割には参道が狭く、板橋第三中学校と国道沿いの建物によって半分ほど幅を削られてしまったのか。







富士塚


境内東側にある富士塚。昭和8年(1933)の国道17号線の拡幅工事によって、富士塚の東側が削られてしまったという。それでも現在11のお社が置かれるほど塚自体は大きい。


鳥居脇が嚴島神社、その背後に稲荷神社、右に古峯神社、山の中央の最も大きいお社が天祖神社、右下に石祠が三つあり内一つが笠間稲荷大明神、手前にも稲荷神社が二つ、天祖社の左隣にひっそりと建つ小さな石祠が浅間神社、左に三峯神社、手水舎の左に小さな石祠が二つと、小御岳神社が鎮座する。





富士塚の頂上にそびえる立派なお社は、三社造りの天祖神社。

祭神は、中央に天照皇大神、右に大物主大神、左に應神天皇。





天祖神社の左脇に鎮座する浅間神社。

頂きの場所も、お社の大きさも、天祖神社に遠慮しているかのような状態でちょっとさみしい。




富士塚の御由緒 境内掲示より字体改行などそのまま記載



  氷川町氷川神社富士塚


 富士塚は、一般的に、富士山へ登拝することを目的に

組織された「富士講」の人びとによって、富士山を模し

て造られた、ミニチュアの人造富士山のことであり、富

士講が爆発的に広がった十八世紀以降に、各地で盛んに

造られました。

 氷川町の氷川神社富士塚は、弘化四年(一八七四)の

奉納石碑や、安政二年(一八五五)の塚頂部の石祠が板

橋宿の人びとにより建てられていることから、少なくと

も十九世紀中頃には築造されていたものと考えられま

す。

 当富士塚を造成したのは、富士講中興の祖である伊藤

身禄(食行身禄)の高弟で、板橋宿の平尾宿に住んでい

た永田長四郎(心行長照)を講祖とする永田講中です。

同講は、板橋宿中宿、平尾宿や上板橋宿の一部の人を中

心に構成されていました。

 当富士塚は、麓から山頂にかけて登山道が設けられ、

それに沿って石碑が建てられており、富士山の溶岩であ

る黒ボクが一部使用されています。塚上には、境内地の整

備にともない、浅間社などの末社が集められています。

 現在の富士塚は、昭和二年(一九二七)から同八年に

かけて行われた中山道(現:国道十七号線)の道路幅拡

張工事によって、築造時の「富士塚」東側にあたる部分

が削られ、同四十八年の玉垣建立時に土留めが施された

状態となっています。

 なお、区立郷土資料館には、永田講が使用していた

「冨士永田講関係祭具一括」が収蔵されており、区指定

有形民俗文化財となっています。

 当富士塚は、板橋地域の鎮守である氷川神社の境内に

あり、地域の富士山登拝講の歴史や民間信仰などについ

て考察を行う上で貴重な史跡であり、平成二十四年度に

登録文化財となりました。


 平成二十六年二月

 板橋区教育委員会






富士塚の左端に鎮座する小御岳神社(こみたけと読むらしい)。

お社の中には一本の石柱が建っていて、「小御岳石尊大権現」と刻まれていた。祭神は磐長姫神。


小御岳神社は、富士山中腹の山梨県側にある神社。石尊大権現というと神奈川県の大山阿夫利神社と同じだが、祭神からすると前者の方の御分霊だろう。







手水舎


富士塚の麓にあり。







庚申塔


手水舎の左側に安置。







氷川神社


鎌倉時代初期頃の創建と伝わり、南武蔵を領した豊島経泰によって勧請された。豊島氏が没落後は板橋宿の住民らによって守られてきたと言う。旧別当寺は如意山観明寺。


昭和前期までは、弓矢を用いて行われる作物の吉凶を占うおびしゃ(御備射・奉射・鬼射)祭が行われていた。現存する代表的なおびしゃ祭は、水稲荷、中井御霊神社、葛谷御霊神社(いずれも新宿区)で執り行われている。







狛犬


向かって右側が阿形、左側も阿形に見えるが、口の開き具合からいったら吽形だろう。何れも持ち物は無いが、当社だけのオリジナル作品と思える愛嬌たっぷりのお顔立ち。









氷川神社の御由緒 境内掲示より字体改行などそのまま記載



  氷川神社


 御祭神素盞男命、稲田姫命。


 創建は第八十三代土御門天皇の元久三(一二〇六)

年頃、この辺りの領主豊島左衛門尉経泰が武蔵国

一の宮氷川神社(現大宮市)から御分霊を、石神

井川畔の景勝の地である当地に勧請したのに始ま

ると伝えられている。

江戸時代は板橋宿の鎮守として広く信仰を集め、

今日に至る。

 当社は明治二十二年に火災にあい、文書や社宝

等を焼失した。社殿は翌年再建されたが、昭和二

十年四月十三日の空襲により再び焼失した。戦後

昭和二十九年に御造営奉賛会が結成され、昭和三

十二年に現在の社殿が竣工した。


 平成六年三月

 板橋区教育委員会







神楽殿


毎年九月の第二土日に例大祭が行われ、その両日に神楽がここで奉納される。






写真はすべて、2016.9.4 撮影


備考

社号 氷川神社

祭神 素盞男命 稲田姫命

創建 元久三年(1206)頃

祭日 一月深淵の御祈祷、二月節分祭、

    九月第二土日、十一月七五三

末社 厳島神社(市杵島姫神)

    稲荷神社(保食大神)

    古峰神社(大山咋神)

    笠間稲荷大明神(表記無)

    天祖神社(天照皇大神・大物主大神・應神天皇)

    浅間神社(木花咲夜姫)

    三峯神社(伊邪那岐神・伊邪那美神)

    小御岳神社(磐長姫神)

講社 永田講(1966年解散)

旧社格 郷社

社務所 神札御守り授与御祈祷受付有

所在地 東京都板橋区氷川町21-8

その他 豊島経泰勧請


※備考欄の内容は、当該社寺の公示又は典拠を基に記載し、不明瞭なものは空欄にしてあります。

またこのブログ内の記事は、散歩としての見所やおススメポイントとして、私が感じた主観的な評価であり、当該社寺の格式や宗教的価値、ご利益等を評価したものではありません。





周辺散歩





旧中山道


日本橋から始まる五街道最初の宿場町を江戸四宿といい、そのうちの板橋宿(上宿・仲宿・下宿)がここ一帯にあった。五街道なのに宿場が四つしかないのは、日本橋から宇都宮までは日光街道と奥州街道が共通であったため。







この道を「旧中山道」と呼ぶのは、現在では国道17号線の方を中山道と呼ぶことから。

旧道も商店街のような雰囲気は残っているものの、かつての賑わいを感じられるものは無くお店もまばら。国道の方は交通のための道路といった感じで少々さみしい。







板橋


板橋宿や板橋区の地名由来になった橋。旧中山道と交差する石神井川に架かる。

ここ石神井川の桜並木は、「板橋十景」に選ばれる景勝地。約1,000本の桜が咲く絶好のお花見スポット。







江戸名所図会


板橋の原

鎌倉時代、鎌倉管領足利基氏の逝去に乗じ、芳賀入道禅可、子息伊賀守高貞、同じく八郎高政が越後より鎌倉に向かって出陣、それを聞いた執事上杉憲顕の子息兵庫頭憲将、兵部少輔能憲兄弟と千葉介直胤、小山朝明らが迎え、広大な平野だったここ板橋の原で相見えた。


板橋の駅

交通網や交通手段の選択肢の多さから、現在の中山道はほとんど賑わいが無いが、最盛期の江戸後期には大変人の往来が多く、宿場内の住居数は573軒、旅籠だけでも54軒を数えた。茶屋・酒舗・飯盛旅籠も多く軒を連ねたが、明治時代に入り宿場町としての重要性が薄れ、昭和中期までは板橋遊郭として発展していった。







遊座大山商店街 ゆうざおおやましょうてんがい


中山道の西側、板橋区役所の100mほど南側にある商店街で、東武東上線大山駅に向かって西に延びる。線路を越えるとハッピーロード大山と名が変わる。今では中山道よりこちらの方が活気に満ちていて、街の雰囲気も山の手や下町ともまた異なった情緒がある。