死と時間 | 想像と創造の毎日

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  桜はとっくに散ってしまったのだが、春は近付いたと思うと遠のく。

  乱高下する気温の波が、私を私の形に保とうとするあらゆる部分の恒常性を揺さぶり、意識を失わせようとする…つまり。眠い。


  師匠の仕事効率が年々下がりつつある中、私は家の中でどんどん幅を利かせる苗たちを外に植える日が来るのを今か今かと待っている。


  手伝いたいのだが、師匠には師匠のやり方ってもんがあるから、私はそれをグッと堪えた。

  まあ、そもそも。体力的にも時間的にも技術的にも経験的にも、私にできることは限られているし、師匠の生きがいとプライドを奪うことも望まない。



  なにせこないだ、職場の猫の額ほどの花壇(を全てみーちゃんが一昨年、畑にしやがった)の畑おこしを手動(スコップ)で行った際、小一時間ばかりの作業にも関わらず、肩と首を痛めたのだ。

  

  山にも長らく登っていないし、竿も振っていない。毎日の運動は動画を見つつの踊りみたいなトレーニングのみだから、自然に対応する筋肉なんて付きやしないのだ。


  そう、アイツ。

  たんぽぽというほんわかした名前とお日様の似姿のような眩い姿でありながら、根はまるでゴボウのように長く、太い。

  アイツを掘り起こすのに全身全霊を傾け、あえなく私は、その自然の力の前に敗北したのだった。


  少しでも根が残ってると、そこからまた伸びてくるんだ。

  師匠が言った言葉に忠実に私の思考は働かされる。


  みーちゃんたちが去年、それはそれは綺麗に花壇の花を引っこ抜いたにも関わらず、たんぽぽだけは、そここそ自分たちの独断場と言わんばかりにその地に繁殖しまくっていたのだ。



  しかし植物は、本当に不思議なのだ。

  命の定義を自分の身体機能に当てはめると、因果関係が崩壊してしまう。


  種と生殖で増える私の常識の外で、彼らは遮断された根、挿した枝、触手みたいなランナーで増殖していく。


  その様子に、生と死の境目を見つけることができない。崩壊する二元論。


  幹が裂け、枝を切り落とされた桜の木さえ、その残った部分に花を付けたりする。


  そして、マメ科の菌根菌、糠漬けの乳酸菌、飯寿司の麹菌、等。

  命の命の間を取り持つようなものの存在は、死との境目を曖昧にする。

 

 

  ー民族植物学者のテレンス・マッケナは、シロシビンを「意識の教師」と捉え、自我を一時的に解体し、宇宙的な一体感や生命との連続性を体験させることで「生と死の意味づけ」すなわち死生観を変容させる可能性があると主張。ー



  羅臼岳は、7月に例年通り、山開きを行う予定のようだ。

  私は正直、とても嬉しく、行きたくて、行きたくて、堪らない。

  

  だけど世間や周囲の声は、熊が危ない、わざわざこんな時にそんなところに行かなくても。というのがほとんどだ。


  私も怖くないわけではない。何かあって、人に迷惑かけるかもしれないことは忍びない。


  でも私にとって山だけが、自分が死の恐怖を忘れることのできる場所なのだ。つまり。山は私のLSD。


  いや。忘れているわけではない。むしろ、死にたくない感覚がより強く感じられる場所とも言えるかもしれない。


  文明は、死を拒絶したことで生まれたものだろう。

  自然との繋がりを遮断することで、私たちは常に死の恐怖に晒され、自由を少しづつ手放してきた。


  そんなことを考えると、決まって私は、"モモ"という絵本のマイスターホラのセリフを思い出す。


ーもし人間が死とは何かを知っていたら、怖いとは思わなくなるだろうにね。そして、死を恐れないようになれば、生きる時間を人間からぬすむようなことは誰にもできなくなるはずだ。ー

  


  死とは、なんだろう。

  

  畑や山で、私はいつもそれを無意識下で、考える…というよりも、感じようとしていたのかもしれない。


  たまたま山で再び交流を持つようになった古い友人がいて、お互いにそんな感じでもなかったのに、山なんて登ってるなんて!と驚いたが、みーちゃんが、女は40を過ぎると山に登りがちになるとか、何かで見た。と言うので、大笑いした。


  若さや美貌(んなもん最初からないに等しいが)、という女としてや社会的な生き物としての人間の価値が失われていくと、人にどう見られるかで自分の価値を図ることが如何に無意味でつまらないかと思い知らせ、そのことが私たちの意識を自然に山に向かわせたんだろう。


  だけど、みーちゃんにはまだわからないんだ。

  痩せるためとか、健康のためとか、暇だからとか、だいたい何が綺麗なんだとか、これのどこが不思議なんだ?とか、いちいち私に言ってくる。


  でも、少しづつ、少しづつ、興味を持ち始めているのも事実で、頂上に辿り着いた達成感と同じように樹氷や高山植物を見ると、すごい。と呟くようにもなってきた。


  そして最近では、熊が怖い。という。

  私は思わず、こう言ってしまった。

  自惚れんなよ。私だって、熊は恐ろしいわ!誰よりもな!けど私が怖いのは、熊だけじゃねえ。

  車の運転も、地震も、雷も、ガンも、子供や親たちに何が起こるかも。何もかも全部が、熊とおんなじぐらいこえーんだ、と。


  雲がものすごいスピードで走っていくのを、山肌の影に認めたとき。


  その子と私は思わず同時に声を上げた。


  言葉で表現できる語彙を持たない私たちが、目配せでその感動を共有していたのだが、みーちゃんは、ただひとり、は??という表情で私たちを怪訝そうに眺めたことがあった。


  でも、それで、いいんだ。とも思う。


  ついつい現実を忘れて、妄想の世界でひとり遊びを始めそうになる私を引き戻すのが、みーちゃんだ。


  私は私で、現実が全てだと閉じこもって効率優先になるみーちゃんに無駄ばかりの世界で、自分を忘れることの快楽を教えているつもりなのだ。


  苦しいだろ。こえーだろ。くだらないだろ。

  それは、未来への不安を、忘れるほどに。