恒例の義母の通院のために長時間、運転する。
世間では、お義母さんのお世話をよくするいい嫁だと思われているらしいが、別に甲斐甲斐しく世話しているわけでもなく、むしろ世話になっている方が多いくせに、内心、わがままだな、なんて思っていたりする。
話も特に面白くないし、最近ではますます同じ話しかしないし、しかも同じ話をしているのを自分でも自覚しているらしい。
歳を取ると同じ話ばかりするのは、何でだろう、といつも思う。
よく思い出せば、私だってこのブログにでさえ、同じ話を何回も書いているのだから同じだ。
強烈に自分が面白かったことや印象深かったことをどうしてか何度もいいたくなるのは、承認欲求が強いせいか。
歳を取ると、身体が思うようにいかなくなり、今までできていたことが、少しづつ出来なくなる。そのことは、私が想像するよりもずっと、ショックなことらしかった。
だから、自分ができること、褒められたことを(嫁だから遠慮する私)聞いてくれる人には、何度も言いたくなるのだろうと思った。
まだ自分が誰かに必要とされていること、自分にはできることがまだあることを何度でも確かめたいのかもしれない。
息子や旦那には、また同じ話しか。ボケてきたのか。しまいには、しつこいんだよ。だなんて言われてしまうので、私はめんどくさいと思いつつも、ちょっとだけ可哀想になってしまうのだった。
一人なら、歌を歌ったり、音楽を聴いたりしながら運転するから、長時間のドライブも苦にならない。
しかし何時間も義母と二人っきりで、義母の話を聞き続けるのは、正直キツい。
いかに手術が辛かったか、リハビリをどれだけ頑張ったかだけを、一時間以上も聞かされるのだ。
私は、そのたびに初めて聞いたかのようなリアクションを取り、それは大変だったね。それは私なら耐えられないわ。などと言い、その言葉を聞いて義母は毎回、満足そうだ。
私の子育ても、これくらい傾聴に励み、大袈裟に褒めていたら、もっと自己肯定感の高い子達に育てられたのかもしれない。そう思うと子供たちにはちょっとだけ、申し訳ない気もする。
さすがに途中で飽きてきたので、私はBGM代わりに流していたポッドキャストのボリュームを上げた。
最近、ハマってしまった安住紳一郎さんの日曜天国である。
ここ10年以上もテレビをあまり見なくなったから、安住さんは顔と名前と職業を知っているだけだった。
でも、登山の往復の間の運転時間などに何気なく聴いていて、どハマりして、YouTubeとかでも聴きまくるようになった。
安住さんがアナウンサーの中でも大人気なのは、ものすごく共感できる。
穏やかな話し方だけれども、時々毒づく。でもその毒も人を不快にさせないギリギリの線を保っている。
自身では性格が悪いと言うが、そうは思わない。
安住さんは、自分にとても正直なところが良い。
フリーにならず、ずっとTBSの社員なのもなぜか、好感が持てる。
穏やかに見えて、こだわりが強くて、気難しそうなところも面白い。
コンプレックスをさらけ出して、自虐しているけれど、仕事にまっすぐに誠実で、でも権威に従順ではないところもいい。
今更になって、よしながふみ原作の"きのう何食べた?"の実写映画を観た。
よしながふみさんの原作漫画は、これ以外にもいくつか読んだが、人間の心の機微を描くことに関して、天才だと毎度、感嘆する。
"きのう何食べた?"は、ゲイのカップルの日常を食に絡めて描いた作品だが、よしながさんは本来、BL作家さんであるらしい。
ゲイとは言っても、恋愛中心というわけではなくて、登場人物たちそれぞれが、みな一様に何かが欠けていて、それを補い合うようにみっともなくも、でも懸命に人と関わり合っている日常が、自分自身にも重なる。
ゲイに偏見がないと言えば嘘になる。
偏見というよりも、テレビやネットの世界でしか見ないから、よくわからない、というのが正直なところだ。
でも、この作品のカップルを見ていると、ゲイということを忘れてしまう。
漫画以上におもしろくなるわけがないとタカをくくって見ていたけど、ゲイの片割れのケンジを演じる内野聖陽さんがめちゃくちゃ良い。
主演のもう一人の片割れの西村秀俊さん演じる"シロさん"が社会ではゲイを隠して、一見ノンケに見える。
しかしドラマ版の冒頭で、ケンジが仕草も言葉使いもオネエ全開なのに、自分の職場である美容室のお客さんにゲイであることを簡単にカミングアウトし、さらに自分はこう見えてもオトコなんです。というところは、漫画でも最初はその設定にちんぷんかんぷんだったが、読んでいるうちにネコとかタチとかがあって、外見や仕草が男らしかったとしても、夜(?)は必ずしも男役というわけでもないらしく、時に立ち位置?みたいなのが変わるというから、奥深い。
ケンジは、親にも理解されていて(というより、複雑な家庭環境らしく、母親もそれどころじゃなかったのだろう)、ありのままに愛されてきたから、いつでも正直でいられるのだろう。
一方シロさんは、弁護士という職業もあり、親も堅物で、周りからどう見られるかばかりを気にし、ケチでお金をあまり使わないから、天真爛漫なケンジのことを時々叱りつける。
二人は、結婚という約束もできないし、子供も作れないから、いつか別れるかもしれないということに互いに怯えるのだが、でもだからこそ、互いに相手を一番に思いやる。
そこがゲイである二人の関係のせつなさや純粋さを際立たせる。ある意味、よくある男女の恋愛ストーリーなどとは比べものにならないくらい、恋愛模様はリアルだ。
恋愛どうこうというよりも、人としてどうありたいのか、どうあるべきか。
二人が努力し続けるのは、"特別な"好きを原動力にしながらも、結局は自分たちを取り囲む人々を大切にすることが相手を大切にすることだということに映画では行き着く。
その姿勢には、安住さんにも共通するものがあって、特別な何かになるわけでもないAMラジオの番組を長年続けることも、安住さんが純粋に自分の話すことで視聴者さんに少しでも元気にしたいという気持ちがこちらにも素直に伝わってくる。
正直である。ということは、簡単な人には簡単だろうが、難しい人には難しいことなんだろうと職場を見ていても思う。
プライドが高い人、人の悪口ばかり言う人、無自覚に差別的な人。
それも自分が思っていることなんだから、正直と言えば正直かもしれないけど、その奥にはありのままの自分を認めてもらえなかった悲しい過去があるのかもしれない。
物事には価値も意味も本来ないのだけど、無価値さも無意味さも、そのまま受け入れるには、ひとはあまりにも自我を主張しすぎるのだろう。
心理学では、自我はアイデンティティ、自己をパーソナリティを読んだりするらしいが、自我は自分は自分であるという認識であり、自己はその先にある他人から見た自分、自分と他人を通した自分を認識した上での自分であるそうだ。
ユングに言わせれば、自己の中に自我が含まれるという感覚らしい。
ならば自己形成とは、自分中心であった幼児の世界からの他人との関係性の中で作られる自分というものへの気付き、と言ったところだろうか。
少し前までは、わがまま放題になる義母にもうそれは、無理!と衝動的に言ってしまいそうになっていたが、最近では、段々歳を重ねれば、自分だって脳が衰えて子供のようになるかもしれない、と考えて自分を諌める。
一方で、ボケることに関して、恐怖を感じていながら、自分は衰えているのだから世話されるのは当たり前だ、苦労してきたのだから甘えてもいいのだ、と開き直る態度にも正直腹が立たないわけでもない。
しかしこうやって、しっかり向き合って話をすれば、まだ聞く耳を持っている人に対して、もう歳だから仕方ない、と諦めることは失礼なことだろう。
なので、そればできない。だけど、こうならできる。と、無理だと私が思うことに関して、代替案を提示するのが、人としての誠実さだ。
それは義母だろうが、他人だろうが、関係がない。
人がどうであろうが、自分は自分。
最終的にはそうであるとしても、その人がどうであるかに至る過程を想像することが配慮だろう。
安住さんもケンジも、自分の思いや考えをできるだけ正直に、でも丁寧に伝えることに労力を厭わない。
人としてどうあるべきか。
私は二人からかなり勉強させてもらった思いだ。




