激しい波、吹き荒ぶ風 | 想像と創造の毎日

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「空気を読まないやつが、大嫌い。」

と、いつだか彼女は言った。

  その時みんなはそうだよね、と同意していたけれど、普段からもうすでに彼女のことを軽蔑し始めてしまっていた私は、"何言ってんだ?!こいつ。"という、いかにも同意しかねる、という雰囲気を醸し出しながら、「へぇー。」と声に出した。

  彼女は一瞬私を見たけど、一瞥したようにすぐに目を逸らした。

  この場では、彼女にとって私こそが空気を読めない自分の嫌いなタイプなんだろうなとぼんやり思った。

  

  だいたい空気を読む。ということは、彼女にとってどういう状況を指し示していたのだろう。

  彼女のそれまでの言動や行動から察するに、自分が望む返事を相手がしなければ、気に入らないということなんじゃないだろうか。


 その辺ぐらいから彼女は、私のことを軽く無視するような態度を取るようになった。

  挨拶を自分からしないことはもちろん、私が仕事上、仕方なく彼女にしか尋ねることができないことですら、ほかの人に委ねるようになったのだ。



「無責任過ぎる!あんな人だと思わなかった!」 

  私とはほとんど交流がなかった同僚(便宜上、同僚とする)が、そんなふうに怒りを滲ませて言うのは、初めてだった。

  彼女と同僚は、毎週プライベートで遊ぶぐらい仲が良かったはずだ。

  

  今年から、職場のリーダーとして現場を率いるようになった彼女は、その現場から離れた作業をする私の目から見ても、自分の都合を優先して物事を進めているように見えた。

  

  現場の総意をまとめてみなが納得した上で決断を下さなければならないことが(皆が納得できないにしても、たいがいがその決断が大勢の利益となるのならば)、リーダーとしての大切な役割のひとつであると私は思うのだが、同僚によると彼女はその総意を無視し続け、自分の思い通りに現場を動かしているというのだ。


  しかしその総意が、彼女の作り出した空気に従う、という状況だったに違いないことは私には容易に想像がつく。

  

  その声を皮切りに、現場はバタバタと崩れ、退職者が出たことで、新しいリーダーが召喚されることになった。

  まあ、去年までいた、私の親友ともいえるMちゃんなのだが。


  彼女はMちゃんが来ることに納得がいかなかったようで、同僚によると彼女は、着任の挨拶の場を預けないどころか、現場の人間のほとんどが彼女が来ることを望んで居ないと上層部に訴えることまでしたようだ。  

  私は直接、一人一人に聞いて回ったわけでもないが、ほとんどの人がMちゃんが来てくれることで、内心ホッとしているだろうと思っていたから驚いた。


  Mちゃんが来ることで、現場は落ち着きを取り戻し、仕事に集中できる環境が再び整えられたと私は安心していたが、今度は彼女のメンタルが崩れるという自体になった。


  自分の思い通りにならないから、メンタルが崩れたんだろ?と彼女の心にまったく共感できない冷たい私は思う。

  私ともMちゃんともさほど年が変わらないのにこの価値観、考え方で、よく今までやってこれたなとある意味、びっくりするのだ。


  わがまま。という言葉以外、彼女のことを言い表す表現が思いつかないぐらい、私には彼女に対して慮る気持ちが起こらないのだが、ふと考えるとわがままな人間が私にも身近にいて、日々、振り回されていることを思うと、わがままな性格というのも、ちょっとした病に相当するかもしれない、と思ったりするのだ。


  私を振り回す身近な人も、今まで散々人に嫌われたり、距離を置かれたりしてきた。

  それでも果敢に、自分の言うことを聞いてくれる人をそばに置いているから、別に孤独というわけでもない。

  私はその人が友人ならば、距離を置く選択もできるが、そうではないから、自分なりに心の距離を置いて、自分のストレスが貯まらない程度にわがままを受け入れている。


  どちらの人にせよ、メタ認知が弱いのだな。と思うし、それがわがままな性格を全面に押し出してしまうのならば、そこに振り回されそうになる周囲は、どう接していったらいいのだろう。





  まず、わがままなことは悪いことではない。と周囲が認識することから始まるのかもしれない。

  人はどんな状態であっても、生きていていいし、生きる権利がある。

  このことは、法が成立する以前の段階より、人が保持している生命、自由、財産、健康に関する不可譲の権利、自然権と呼んでもいいかもしれない。


  周りがどうであろうが、自分はこうしたい、こうでありたい、と思うことは、誰にも犯すことのできないその人個人の自由な思いや考えだ。


  しかしそれを受け入れるがどうかは、また周囲の人、それぞれの持つ自然権に委ねられることだろう。

 なので、いくら相手の方に権威があるとは言っても、自分が納得できないことは伝える義務が部下にはあると思う。

  そう。これは、権利ではなく、義務だ。

  しかしそれは個人が自然に持っている自由を犯す権力に反発するというニュアンスではなく、自分にもこういう自由があるはずだ、と時に支配的になる権威に対して、NOを表現することである。


  それを伝えないで、あとからあの上司は全部自分の思い通りにした!と言ったって、通じない。

  しっかり自分は自分の意見を発言したのかということがとても大切だ。

  それが間違っているか、正しいかではなく、互いに自分の権利を主張しつつ、ではそこで合意できないところを互いにどこを譲り合うかを話し合うことが、合意形成だ(と、宮台さんが言ってた)。


  そう考えていくと、彼女だけが悪いわけではなかった。

  彼女が彼女の思い通りに周りが動くような空気を作り出すことが得意だとしても、周囲はその空気を読むことで、面倒を避けたかった、もしくは彼女のわがままを飲むことで、自分が楽をすることを許してもらいたいという気持ちはなかったか。


  空気を読むということは、その場で権威がある人の意見に流されることでなく、その場を支配する空気の背景を冷静に分析するということだ。


  空気を読んだあとに、どう発言し、どう行動を取るのかが大事だ。

  自分はどうしたかったのか。

  その意見に本当に同意しているのか。

  権力者のその意見は、本当に民意を反映しているのか。

  しかし、その民意は、全ての人のわがままを聞き入れるものではなく、全ての人の都合の良いことではないかもしれない。

  できるだけ、大勢の利益に繋がることを選択する。

  それは一方で、少数派の意見を排除する危険も孕んでいるという矛盾を引き受けてもいた。



  彼女のことを嫌いにならない距離感で、付き合っていこう。とMちゃんに提案する。

  人は自分の感情を自分が思うほどにはコントロールできない。

  嫌いと思ったら、仕事に支障が出るほどに、ちょっとした言動や態度に表れてしまうからだ。

  今や権力が自分に移ったMちゃんが、今度は自身が空気を作り出す存在になったと言っても過言ではない。

  

  わがままは、天性というよ?

  自分の中に吹き荒れる嵐を、自分では制御できない病だ。


  その嵐が吹き荒れている心の自然環境にいいも、悪いもないだろう。


  そう。心は自然。

  浜辺で起こる激しい波も、山の頂上に吹き荒ぶ風も、私たちにはどうにもできなかった。


  少し離れて、過ぎ去ることを静かに待つことしか。