流されると委ねる | 想像と創造の毎日

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写真は注釈がない限り、
自分で撮影しております。

  おめでとうございます!

  そう言われて、グラスを合わせる。

  それから、隣に座っている自分の娘ほどの歳の子が、「いつまでも元気でいてくださいね。」と私に微笑みかけた。

  すかさずみーちゃんが、「元気で。って!」と、ゲラゲラ笑って、周りもそれに釣られて大笑いしたのだが、その間、ほんの一瞬だけ雰囲気が固まるのを私は感じていたのだった。

  

  気付けばここにいるみんなは、私よりも年下だった。みーちゃんですら、たったひとつといえ、年下なのだ。


  ホントに段々、いろいろ衰えてるんで、元気でいたいと思います。と私が頭を下げると、10個下の子が、いやいや、全然、私たちよりも若いですよ。と言ったので、もう、そのフォロー遅いわ!と、一応、突っ込んでみた。


  職場の子たちが私のお誕生日会をしてくれた。

  与えること(押し付けること?)を厭わない私だが、受け取ることは苦手だ。

  職場の若い子が仕事以外の場所で、年上である私と、こうやってプライベートでもよく遊んでくれるが、本当に負担ではないのだろうか?義務感でしているのではないか?となんだか不安になってきた。

  

  最近やってきた隣の子、Aちゃんは、都会からやってきた、いかにも今どきの子である。

  彼氏を追いかけて、一人でこんな田舎に来てしまったから、遊ぶ友達もほとんどいなくて寂しいと言うから、たまに誘うようになった。


  他のメンバーもみーちゃん以外は、10歳以上年下だ。

  普段はそんなに意識しないのに、改めてそこに気付いてしまうと、途端に居心地が悪くなる。


  けれども焼けた肉を私の皿に入れてくれるAちゃんが、新鮮だ。

  いろいろ気づかってくれることが、段々、介護されている気分になってきて、面白い。


  最近よく感じる、自分よりも年上の人達の振る舞いを私が不快に思うように、この子達も私のことをそんなふうに思うことがあるんだろうか…と思うとなんだか薄ら寒い。


  時々、仕事においても、この若い子に自分がさも、この乏しい経験の中でわかっているかのように何かを支持し、言い切るとき、反射的にはっ!となることがあるのだった。


  自分が年上の人達に感じる不快な行動や言動を自分が無意識にしてしまうようになることが怖かった。 

  自分が歳を追うごとに新しいものを受け入れられず、若い子たちに影でウザがられることが怖い。


  だからなのか、年上の人達と接して、不快になってしまうことすらも、最近は罪悪感を感じるようになっている。

  年上と年下の子たちに挟まれ、私って、一体、何?私の価値観て、どんななの??と、人生の迷子になってしまうこともある。


  年寄りの頑固さと若い子たちの自由さの間で、私は、うーん。と立ち止まる。


  生きてきたその時々の時代の価値観が、その人を作る材料なのだと思うことがあるが、歴史を振り返ってみれば、どの時代も人間にとっては同じように生きにくい。


  本当に自由なのは、野に咲く花や、川の魚や、エゾシカや、ヒグマだな、と山に登るたび、思うのだった。

  

  年寄りは段々自分が社会から必要とされなくなることに怯え、若い子は自分の絶対的な価値を感じ、早く安心する場所を見つけたいと思っているようにも思えた。

  それは私の未来であり、過去の価値観でもあった。


  それでも年若い子達はみな、一様に私と楽しそうに付き合ってくれる。

  気を使ってないかな?めんどうじゃないかな?そう思うってことは、私が年上の人たちにそう思っている証拠でもある、と考えると、年上の人たちへの接し方も変わってきたような気がする。


  生きてきた時代の違いで、価値観が違うことも、それで不快になることも、面白いと思うことも、選ぶのは、私自身であるからだ。


  変だなと思ったら年上の人にもそれを正直に告げる。不快になった感情のまま伝えれば拒絶されていると感じるだろうから、一旦落ち着いて、その人が私の話に耳を傾けてくれると信頼できる落ち着きを取り戻せたタイミングで伝える。


  若い子に自分の経験を押し付けそうになるときは、私はこうしてきたからこうするのがいいとおもっているけど、もっといい方法があるなら教えてくれる?と、話しやすい環境に持っていくようにする。


  だって結局は、お互いの心の根底にあるのは、歳なんて関係なく、誰が上でも下でもなく、目の前の人を尊重し、そして尊重されたいという願いだろうから。


  

  スズメが、私のごく目の前の枝に留まり、チチチと話しかけるように囀った。


  少し前にも、頭の上に野鳥がしばし留まったことがあったが、彼らにとって私が、ただの風景であればいいな、と思う。

 

  もし山でヒグマに出逢ったら、彼らは私のことをそんなふうに思ってくれないだろうか。

  獲物でも敵でもなく、すれ違うキツネのように、頭上を舞う小鳥のように、私のことを無視する…というよりも、同じ場所で生きる動物として、ただそこにいるだけの存在として、認識してはくれないだろうか。


  そう思うと、他人との間のこともそれでいいような気がするのだ。

  

  その人にとって、私には価値というものはそもそもない。

  それはその人が勝手に思うことであって、私には関係がない。

  

  私がスズメを可愛いと、ヒグマを怖いと思っていても、彼らにはそんなこと、微塵も関係ないように。


  ああ、これが、委ねる。ということなのかもしれない。とふと、思う。

  多数決の社会的価値観に流されるでも、抗うでもなく、全てを全面的に委ねるということ。

  神への絶対的な信頼というものは、こういうことなのかもしれない。

  

  自分というものを確認するような言葉に付随したエゴからは絶対に逃れられない、野生動物のようにはなれないとしても、私の奥底に眠る遺伝子の記憶には野生の部分が眠っているのだと自覚すること。


  野生に身を任せれば社会的な犯罪に繋がるけれど、そこを拒絶してしまえば、命は続かないだろう。

  まったくもってセカイは理不尽であり、であるからこそ、美しいのだった。


  自覚した上で、委ねる。 

  自然はコントロールするようにはできていない。

  感情もコントロールできない。

  だけど、自覚し、見つめることはできる。

  人間の持ち得る高度な精神活動を司る前頭前野を言語で意識して、その奥に眠る無意識の本能を身体で呼び覚ましていた。


  私は感じる。そして、考え続けるのだ。

  どんなに歳を重ねても、生きている限り。