意志の眩しさ | 想像と創造の毎日

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写真は注釈がない限り、
自分で撮影しております。

  彼女は、下がった瞼をめいいっぱい開けて、目を見開き、口角を上げる。


  久しぶり!よく来たねえ。

  前に来たのは、2月だったから。


  私は相変わらずよく覚えているなあと感心…というには、おこがましい。尊敬し、嬉しく思う。


  義理の大叔母は、御歳95歳。

  私とは血の繋がりもなく、冠婚葬祭以外で会うこともほぼなかった。

  最近私は、義母の"足"なので、年に一、二度ぐらい、用事のために大叔母のうちへ連れて行かれる。


  夫の方の親戚の中でも、私は一番、この大叔母が好きだ。初めて会った時から、"感じ"がいいと思っていた。


  昔から知っている義母としては、幼い頃からいつも会っているから、悪い部分もたくさん知っていて、あれでいて、"なかなか"なんだよ。と言うが、心理的にも距離の遠い私だから、いい部分しか見えないというは確かにある。


  私は自分のことを話すよりも、人の話を聞いている方が好きだが、話の面白くない人の話は集中力は続かなくて、途中で空返事になる。


  でも、彼女の話はいつもとても、面白い。

  彼女の身近にいる人の話がほとんどで、私が知らない人の話も多くあるし、それが大抵は褒めることではなく、バカにするような話し方ではあるのだけど、それが全然不快にはならないのだ。

  それは何でかとあとで考えてみると、それが彼女が、それぞれの人の欠点のようなものを魅力的な部分だと捉えているからなんだと思えた。


  世間体には失敗であったり、不道徳である部分でも、笑いに昇華できる話術でもある。

  長く生きている中で、たいていのことは過ぎてみると笑い飛ばせることがほとんどなんだ、と彼女は言っているみたいに思えるのだ。


  彼女は、大笑いする私の目を時折じっと見つめて、あなたは本当に可愛い、ばあちゃん大好き。と笑う。


  私は恥ずかしくなり、返事に狼狽える。

  けれどもこれは自惚れでもあり、そして不思議なことでもあるのだが、私が心から好きだと思う人は、大概、私のことを好意的に見てくれるのだ。


  言葉にして、こういうところが好きだと伝えた訳でもない。

  それはむしろ、言葉の合間をすり抜けて、共鳴する何かだ。


  彼女は子供たちが一緒に住もうと言ってくれているにも関わらず、旦那さんが亡くなってからもう何年も一人暮らしを続けていた。

  義母は、プライドが高いから人に頼れないんだと言うが、彼女にすれば、まだまだ掃除も料理も自分でできるから、一人で自由に暮らしたいということだった。


  料理は得意であり、私は彼女からいつも煮物の作り方や山菜の処理の仕方などと教わる。

  足は多少不自由そうだが、耳は良く聴こえ、目は良く見え、こちらの話への反応のスピードも若い人となんら変わらない。


  本当に95歳なの?!と、私はいつも新鮮に驚く。

  彼女は自分が年寄りであることを認めたくないのだと義母は言うが、それゆえの凛とした佇まい、プライドが高いとは言ってもそれが私にはちっとも不快に感じられないのは、彼女が他者に対していつも、心をオープンにしているからなんだ。


  自分の価値観を通して人を裁かない。

  人は人だと割り切りながらも、他者を尊重する姿勢がいつもある。


  人に気を遣わせない程度のもてなしは、質素でありながら思いやりに満ちている。


  お茶を出す時、彼女は、私に茶碗と茶筒を渡して、ポットからお湯を入れてね。と言う。

  そういうちょっとしたことが、私をお客様扱いせず、受け入れてくれているという安心感をもたらすのだ。


  あいつはどうしようもない。と言う時でさえ、その口調は愛情に満ちている。

  あいつは可愛がってやったのに、ちっとも顔を見せないと愚痴る仕草さえ微笑ましいのは、彼女が顔を見せないほど彼らの日々が充実していることを願っているからだ。


  お正月に子供たちや孫たち、兄弟たちに分けるというごぼう入れ(きんぴらごぼう)を味見する。


  毎年ながら、まったく味が変わらない。

  彼女のごぼう入れを初めて食べた時、本当に驚いた。

  たかが、きんぴらごぼう。誰が作ってもそれなりの味になるとタカをくくっていた自分を恥じた。


  水を一滴も入れずに多めの油で長い時間炒めたのであろう手間。

  ごぼうの皮を剥きすぎず、土の風味は残っているがそれがちっとも泥臭くないのは、躊躇いのない濃いめの味付けだ。

  それが冷めた時に調度良い味付けとなることが計算されている。

  ごぼうとにんじんの太さや長さがちょうどよい歯ごたえで、歯茎を心地よく押し上げる。

  こんなに完璧なきんぴらごぼうをかつて食べたことがあっただろうか、いや、ない。

  これは、きんぴらごぼうではなく、確かに"ごぼう入れ"だ。

  最後にひと回し入れたのであろうごま油の風味が、微かに鼻に抜ける。

 

  煮物も飯寿司も絶品だ。

  それは、彼女が下処理をとても丁寧に行い、調理の過程でも一切手を抜かない部分にある。


  私以外に、ここまではできないのよ。と不敵に笑うその表情ですら、かっこいい。


   私の目を真っ直ぐに見て、真剣に料理のことを教えてくれる彼女の目には、しっかりとした意志が宿っているようだった。

  けれども自分の意志を押し付けるのではなく、私の反応を確かめながら言葉を慎重に選ぶ。

  

  彼女の意志は、自分と私の真ん中にあり、見ていることと見られているその中間地点に存在していた。


  深く刻まれた皺が、彼女の経験の数だけあった。

  人にも暮らしにも丁寧に向き合いながら、それでいてその真剣さを微塵も感じさせないその柔軟さは何だ?!


  私は彼女のように歳を取りたい。と会う度に思う。


  年寄りであることを味方にせず、自分のことは自分でやり続けるという意志。

  でも、ちっともそれが私には頑固には感じられない。

  

  来年も生きてれば、また作ってやるからな。


  しかし、下がった瞼の間から覗く、目の輝きからはまだまだちっとも死の匂いがしない。


  自分が何を考え、何を選んでいるか。

  意志は常にその客観的作業の中にあるのだと思う。


  自分をモノとして分析したとき。そこには感情が入り込む余地がない。

  しかし感情が揺らされるとき、自分はただの物質であることを忘れていた。


  しかし感情は人生を彩るものだ。

  そこに意味はなくても、色がある。

  感情に溺れるのは、ドラマチックだ。

  しかし浸り続けていては、現実は捉えられない。


  色も形も、私がカオスの中で、認識を使って作ったものだ。

  色も形も意味もない。

  だから、それを作っているのは、私。

  そこに本当の自由があるのだ、と私は彼女を見ていて確信するのだった。

  

   相手の好き。はコントロール不能だ。

   でも私の好き。だけは確実にある。

   私の好きは誰にも何にも邪魔されない。

   例え、世界がどうであっても。