地熱発電 | 想像と創造の毎日

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写真は注釈がない限り、
自分で撮影しております。


  真っ白な雪に覆われたと思っていた我が街のシンボルである山は、いつのまにか緑を取り戻していた。

  麓にある街は、すっかり根雪になり、真冬の景色であるというのに。


  裏にある斜里岳や知床方面にある山々は、真っ白である。
  この山が雪に覆われるのがそれらの山よりも遅いのはいつものことだが、街よりも白くないというのは今までなかったようにも思える。


  この山の周辺では、本格的に地熱発電の開発が始まっている。

  

  いつもなら、一番近いこの山を登ることが多かったが、今年はたった一度しか登らなかった。

  地熱発電のことを気にしたわけではなく、ただ登っている最中の景観が良くないので足が向かなかっただけである。


  地熱発電が山の雪を溶かしているわけでもなさそうだが、なんとなくそこと関連付けて考えてしまう。

 

  周囲には、無料の秘境温泉もあるが、きっとこの温泉も入れなくなるだろうという気がしている。

  地熱資源を取り出すということは、温泉資源にも少なからず影響するらしいからだ。


 周囲に美しい湖や豪快な火山口があるわけでもなく、ひたすら笹薮だらけの登山道ではあるが、私にとっては一番近い場所にある登れる山だった。


  だからこそ、観光資源としての価値が低いため、発電所として選ばれたのでもあろう。


  もっと開発が進み、実際に稼働するとなると、どうなるのだろう。


  登山よりも、国際的な関係による再エネ事業や、輸入に頼らないエネルギー開発、そして地元雇用だって大切なことは私にもわからないわけではない。


  何年か前まではポツポツと目撃されていたシマフクロウも、とんと見たという声を聞かなくなった。


  毎朝、この山を仰ぎ見るのが習慣だ。

  都会と比べればゆっくりだとはいえ、少しずつ変化する街並みと違い、山だけは姿、形が変わらず、自分の今いる居場所を確かめさせてくれるような存在だった。


  いつも見上げていた山の頂上から、いつもいる自分の居場所を眺めると、何もかもが自分から始まっていたと思っていた傲慢さがふと消えて、自分は環境におけるただの一部分、自分は動いているのではなく、動かされていたんだという謙虚な感覚になった。


  山は昔、神様であった。

  簡単には立ち入ることのできない禁止された領域だった。


  熊やシマフクロウは、その山の守り神であり、人と自然の間を繋ぐものだっただろう。


  良いも悪いもなく、ただ止まれない。

  私たちが人間である限り、止まることができない。


  その欲望を淡々と受け入れながらも、持続可能性というものが、自分がいない未来へ向けられているならば、それが唯一の希望だ。


  神はやっぱりあの山にいる。

  お怒りになられたのなら、それを受け入れることも人間の覚悟なのかもしれない。