師匠に着いていくと自然と釣り仲間のおじさんたちとも顔見知りになる。
年々、秋鮭釣りができる場所が徐々に狭められ、ついに去年から私たちの行きつけの場所も期間限定ではあるが、釣りが禁止になった。
師匠の仲間の一人が、これはどういうことなのか?と知り合いの町議や道議に尋ねたところ、釣り人のマナーが悪くなり、秋鮭の漁獲量も減っているからだと言ったという。こういう動きはこの街だけではなく、全道全てに拡大していくべきだという流れになっているから、徐々に釣りが禁止になる場所が増えていくだろうという話だった。
師匠と仲間たちの行きつけの場所は、数年前までは、互いに顔見知りの仲間しかいなくて、ゴミもなかったし、そこまで行く森の中も駐車場も自分たちで草を刈って道をつけていた。
しかし、このコロナ禍以降、その場所ではゴミが溢れ、喧嘩が起きている。
それはその場所だけではなく、釣れるという噂が瞬く間に広がった場所は、常にそういう事態が起きているのだった。
個人的な感覚(それは恣意的でもある)では、いわゆる輩層が増えた気がする。
そこで伝わってきた釣り人たちの暗黙のルールは破られ、無法地帯になっているのだ。
しかしそれは当たり前のように思えた。
ライブハウスとか、飲み屋とかが軒並み休業する中、家に黙ってはいられず、他人との交わりを求める人達は外にその居場所を求めることは当然だからだ。
師匠たちのその不満の行き先は、わかりやすい輩層に向かう。
そして、漁場を荒らされる漁師たちは、釣り人たちに向かうのだろう。
前に読んだ新聞の記事では、釣り人たちが魚を減らしている可能性があるから調査する。とまで書いていて、そこには例えば無差別に網に入った魚の中で、金にならないゴッコ(魚の種類である)は廃棄されているという事実は含まれてはいない。
魚屋で働いていた友人が、私がゴッコが食べたいと言ったら、もうゴッコは安すぎるからセリにはかけられなくなったのだと言っていたのだった。
師匠たちは、もう釣りが出来なくなるなら、今できるうちにどこでも釣りまくってやろうか!なんて、半ば冗談めかし、そして投げやりに笑って言った。
スイスのダボスという街で、経済学者、慈善活動家のクラウス・シュワブという方が主催する世界経済フォーラムによるダボス会議が今開催されているらしい。
メンバーは世界のリーダーとされる華々しい経歴を持つ人物たちで、世界情勢の改善を目的とした国際機関であるという。
成田悠佑さんの言ってた夢の話を思い出した。
ある女の子が怖い夢を見たと泣いている。どうしたの?と尋ねると、みんなおでこに成功者と書かれていて、ワイン片手に格差問題について語っている。こういう精神性には絶えられない。悪魔じゃないか。こんな世界は。と。
世界経済フォーラムは、ローマクラブをモデルにして作られたという。
ローマクラブの概要には、こんなことが書かれていた。
ー私たちが団結できる共通の敵を探す中で、公害、地球温暖化の脅威、水不足、飢饉などが当てはまるのではないかと考えた。これらの現象は、全体として、また相互作用として、共通の脅威であり、皆が一丸となって立ち向かわなければならないものである。しかし、これらの危険を敵とすると、すでに読者に警告したように、症状を原因と勘違いしてしまうという罠に陥ってしまう。これらの危険はすべて、自然のプロセスへの人間の介入によって引き起こされたものであり、それを克服することができるのは、態度や行動を変えることによってのみである。真の敵は人類それ自身である。ー— 第一次世界革命、1991年
冒頭にある私たちが団結できる共通した敵を探すという文章に違和感を覚える。
団結するために共通の敵が必要である。
意味が反対に思えるのだが、宮台さんが言ってたように国は戦争のために作られたという話を思い出して、納得した。
ミクロな視点に持っていけば、自分の周りの日常だって、共通の気に入らない人の話は盛り上がるし、そのことでお互いの結束が深まっていることもまた事実なのだった。
幼い時から見ていたアニメやドラマは勧善懲悪の世界が主流だった。
この世には善人と悪人しかいなかった。
理不尽な世界は、ヒーローが救ってくれた。
子供たちは、敵をぶっ殺すヒーローに熱狂した。
自分の外側にヒーローを求めることがいつのまにか普通になっていた。
世界をひとつの価値観にすることが、平和への道なのだと信じていた。
けれども生命が生まれる過程は、残酷とも言えるシステムでできている。
例えばネコのペニスにはトゲがあり、引き抜かれるときのメスは痛みに悲鳴を上げるという。
人間も処女膜が破れるときだって痛いし、出産はそれ以上だ。
種の存続に痛みが伴うという事実。
欲望を捨てれば命は生まれなくなり、欲望は叶えようとすると痛い。
地球をひとつの肉体と見れば、臓器はそれぞれに違った役割を持っている。
それらは自身の役割に専念することで相互に影響を与え合い、恒常性を保っていた。
ひとつになる。ということは、各々同じ機能を果たす臓器に変化することではなかった。
私の役割ってなんだろう。
時々、ぼんやり思う。
だけどそれはやっぱり、湧き上がる好奇心の先にある気がするのだ。
そして好奇心は、生きる実感を味わえるけど、時々誰かや何かを傷付ける。
認識できる正義は、視点で眺めると恣意的である。
視点とはどの観点で見るか?であり、視野はどの範囲で見るか?だという。
そして視座は、物事をどの位置で捉えるか、物事を見る上での立場のことを示すという。
だから視座で眺めるには、自分をできるだけ排除しなくてはならなかった。
ワインを傾けて、格差社会を語る私。
釣りのとき、よく釣れる場所に無理やり入って、食べたゴミをその辺に捨てる私。
どっちも私ではないけれど、その私に本気でなってみて、世界を視座で眺めてみたい。