その日は異常な暑さに目が覚めた。蝉の声、国道の陽炎、ちっとも涼しくならない扇風機。こういう日は父ちゃんの“あっつ、あっつ、あ~あっつぅ~”を嫌になるほど聞かなきゃならないので、さっさと外へ遊びに行こうと顔を洗っていると、鏡に映った眠そうな僕の顔の眉間のあたりが蚊に刺されて赤くぷっくりと膨らんでいた。蚊ってやつはどうしてこう人が嫌がるところを刺すんだろう。まるで授業中僕が腹を減らして、カツカレーやオムライスのことを考えている時に限って僕に算数の答えを言わせるテンパみたいだ。
僕は戸棚からメロンパンを見つけ出し、それをくわえたまま自転車に乗って飛び出した。
特に行くあてもなかったので、とりあえず国道を海岸線沿いに走って行った。百メートルも走らないうちに汗があふれ出てきた。日差しが帽子のつばを突き抜けて、僕の頬をじりじりと焼いた。通り過ぎるトラックのクラクションが僕の頭のてっぺんで、まるで除夜の鐘のような低いうねりをこだまさせていた。もうだめだ・・・。
僕は通りかかった酒屋でコーラを買った。昨日自転車の組み立てで父ちゃんからもらったばかりの小遣いをこんなところで使いたくはなかったけど、どうしても我慢できなかった。店の外で七百五十CCの瓶に口をつけ、ぐいぐいと飲んだ。半分くらい飲むと少し頭がはっきりしてきた。すると店先に貼られた手作りのチラシが目にはいったので、一旦飲むのをやめて近づいて見ると、それはレッドのコンサートのチラシだった。“ビートエンジェルズ”というかっこ良さそうな名前のバンドで、レッドが真ん中でマイクを持ち、怒ったような顔をして歌っている写真が載っていた。今日の午後三時からと書いてある。僕はすっかり忘れていた。入場料は八百円と書いてあったので、ポケットの中の小さな財布を覗いてみた。中には二百二十六円しかなかった。これじゃあ全然足りない。と言うよりも、どうしてそんなに高いんだ。子供用の自転車を八台組み立てるのは大変だっていうのに。本当はそんなに行きたかったわけじゃないけど、レッドと約束したのでとりあえず港の倉庫まで行ってみることにした。
倉庫が立ち並ぶ港のはずれに着いた頃、さっきまでそんなに気にならなかった蚊にさされた眉間のあたりが急にかゆくなってきて、自転車に乗りながらぼりぼりかいた。すると眉間から少しだけ血が出てきて唾をつけるとちょっとしみた。
いくつもの倉庫のどこでコンサートがあるのかは、その倉庫の近くを通っただけですぐにわかった。ギャギャギャッというギターの音と、ドカドカッという太鼓の音、それに何か叫んでる男の人の声が聴こえてきたからだ。
倉庫の扉が少し開いていたので、中を覗こうと近づいていくと、この暑いのに黒い皮のジャンパーを着て、皮のズボンをはいた背の高い男の人がいきなり僕を怒鳴りつけた。
「コラーッ!ガキィ、あっち行け、邪魔だ」僕はビックリしたけど、悪いことをしているつもりはなかったので、その皮の人にきいてみた。
「コンサートがあるんでしょ?」
「はっ?お前観たいのか?だったらあとで来い、今リハ中だ」
“りはちゅう”って何だろう?なんにしてもこの人は怖そうなので、逆らわないほうがいいみたいだ。皮の人はくわえていたタバコを地面に捨て、黒いブーツで踏みつけるとカツカツと靴音をたてながら倉庫の中へ入って行った。
僕は近くのベンチに座り、どうしたらコンサート会場に入れるかを考えることにした。そこは日陰だったので少しは涼しかったけど、よく見るとそこはバス停のベンチで、バスが来る度にドアが開き、運転手は僕がバスに乗らないとみると軽くため息をつきドアを閉めて走り去って行く。それが何度もつづいたので、さすがに僕も悪い気がしてきた。僕はコンサートをただで観る方法が思いつかなかったし、特にやることもないのでそのベンチで昼寝することにした。そうすればバスの運転手も僕を客だとは思わないだろう。
僕はいつのまにか暗闇にいた。起き上がり顔を上げると、空にはたくさんの星がでていた。するとその星空の下を一羽の鷲が横切っていった。あの日の大鷲だ。僕はあわててあとを追った。そこはどこまでもつづく何もない大地で、僕はいくら走っても疲れなかった。大鷲はスピードをあげて飛んでいく。それに負けないくらい僕の足も軽く、今にも飛べそうな気さえした。そう思った瞬間、それまでよりももっと体が軽くなり大鷲との距離がいっきに短くなった。足元をみると僕の足元には何もなかった。パタパタと両足を動かしてみたけど、やっぱり靴底には何の感触もなく、僕の体はどんどん星に近づいていった。僕は飛んでいた。飛んでいたけどどう飛べばいいのかわからず、ちょっとでも手足を動かそうとすると、体がぐるぐると回った。仕方がないので、僕は首元をつかまれた子猫みたいに手足をぶらぶらさせていた。そして大鷲と同じくらいの高さまで上昇すると、前方を飛んでいたあの大鷲が方向転換し、僕のほうへ飛んできた。大鷲の攻撃を避けようとジタバタしてみたけどうまくいかない。そうこうしているうちに大鷲は僕の正面から思い切り突っ込んできた。今にも僕の顔にあの鋭いくちばしが刺さろうかとした時、大鷲はふわっと舞い上がり、僕の帽子を足で掴み取ると更に上へと飛んでいった。僕は追いかけようと上へ行こうとしたが、動けば動くほど下へ下がっていき、星もどんどん遠くなっていく。僕の帽子を盗んだあの大鷲の姿も見えなくなっていく。今まで全然疲れを感じなかったのに、急に体が重くなってきた。するとプツッと糸が切れるかのように僕の体は地面へと落ちていった。僕はどこかへ吸い込まれていく。掃除機に吸い込まれるゴキブリの気持ちが少しわかった気がした。それでも無数の星は僕の前で瞬きつづける。その時夜空は僕だけのものだった。落ちたら痛いだろうな。でもなんだか気持ちいいなぁ。さぁ落ちよう、一人じゃ寂しいよ。誰か一緒に落ちていこうよ・・・。
「おい!おい!」
僕が目を開けようとすると、強烈な日差しが目の奥まで突き刺して痛いぐらいだった。レッドの馬鹿みたいに大きなサングラスに映った僕は、それよりもっと馬鹿みたいな寝起きの顔をしていた。冷や汗なのか、暑さのせいか、僕の体は全身汗でびっしょりだった。
「お前、うなされてたぞ」
「う・・うん」僕は起き上がり、辺りを見回すとちょうどレッドの足元に僕の盗まれたはずの帽子が落ちていた。僕はそれを拾い上げ、隅々までよく見たけど、鷲の鋭い爪の跡のようなものは何もなかった。
「ライヴ観にきてくれたんだろう?」
「うん、でもお金ないんだ」
「子供から金なんかとれるか。いいから来いよ」
僕はまだ宙に浮いてる気がして、ふらふらしながらレッドのあとをついていった。
倉庫の裏に行くと、レッドの友達がたむろしていた。みんな黒い皮の服を着ているし、僕のほうを見てにやにやしていて、なんか居心地が悪かった。それにちょっと変わったタバコを吸ってるし、僕がここにいちゃいけない気がした。
「おい、ぼうず、どうだ?」ちょっと太ってて髪が逆立った男が僕にその変なタバコを差し出した。僕はすぐに首を横に振った。
「馬鹿、やめとけ子供だぞ」レッドはそう言うと、飲みかけのサイダーを瓶ごと僕に差し出した。ちょっといやだったけど喉が渇いていたので我慢できず、口をつけて一気に飲み干した。それからレッドはそこにいる一人一人を僕に紹介してくれたけど、みんな同じような格好なのでよくわからなかった。僕はみんなに頭をなでられたり、尻をなでられたりした。筋肉がムキムキで、パーマ頭の男の人は口を大きく開け、僕にのどちんこまで見せて「俺は虫歯菌を百万匹飼ってるんだ。十万匹くらい分けてやるぜ」と言った。僕以外は大爆笑になった。
その人達といるとだんだん気分が悪くなってきたので、僕は裏のほうから倉庫の中に入ってみることにした。そこは思ったよりも涼しく、外にいるよりは快適だった。正面の入口のちょうど反対側にちょっとした舞台が作られていて、楽器や大きなスピーカーなんかが置いてあった。舞台の真ん中に立つと大きな照明があちらこちらから、僕のほうに向けられていた。でも客席らしいものはどこにもなかった。普通はイスとかあるはずなのに、舞台以外はただ倉庫の入口のほうまでがらんとしているだけだった。
僕は舞台を降りて、倉庫の入口まで歩いていった。入口に近づくにつれて人の声が聞こえてきた。入口から差し込む光はまぶしく、まるで天国へつづいている道を歩いてるみたいだった。扉の外に出ると、そこにはたくさんの、ちょっと怪しげな人達がいた。レッドと同じように全身皮の服を着た人達や、破れたティーシャツを着た人、穴のあいたジーンズに安全ピンをたくさんつけた人、とにかくこの街ではあまりみかけない人ばかりだ。
一体どこから来たんだろうか。ロックのコンサートだっていうから、キッスみたいな化粧をした人も来るのかと思ったけど、そんな人どこにもいなかった。
やっぱり僕にはちょっとこういうところは合わないみたいだ。僕みたいな子供は一人もいないから話し相手もあんまりいない。コンサートってお祭りみたいなものだと思っていたけど、倉庫の外にジュースとビールの自動販売機があるだけで、綿アメや焼きそばも売ってないし、金魚すくいも形ヌキ屋もない。
少しするとレッドの友達が何人か来て、客を倉庫の中に誘導し始めた。僕は自分が客なのか何なのかよくわからなかったので、とりあえず黙ってその様子を見ていた。
客が全員倉庫の中に入り、僕はやることもないので結局レッドのところに戻ることにした。
レッド以外のほとんどの人達は舞台のすぐ裏で出番を待っていた。僕はレッドを探しにその辺をうろうろと歩きまわった。
レッドは倉庫の裏のポリバケツの横に壁を向いてしゃがんでいた。背中を丸め、皮のジャンパーのポケットに手をいれたまま小さな声で何かつぶやいていた。少し近づいてみるとレッドの肩は小さく揺れていた。泣いているみたいだった。僕は声をかけるのも気が引けたのでそのままじっと見ていると、レッドはポケットから何かの薬を取り出し口に放りこんだ。するとレッドは大きく上下に首を振り、急に飛び上がるように立ち上がった。
「アーーーーー!」レッドは奇声をあげながら走り出し、僕の横を駆け抜けると、その勢いのまま舞台へ飛び出した。あとを追って僕も走った。レッドが舞台に上がるのと同時に演奏が始まった。ギャギャギャギャギャーン!ドカボカッウギャーン!イェー!
僕は思わず両手で耳を押さえた。正直言ってそれはただの騒音だった。舞台のすぐ横から観ていた僕は、目の前のスピーカーからの大音量に耐える自信がなかったので、壁づたいに観客の後ろのほうに逃げた。観客の一番後ろから舞台の方を見た僕は客席が必要ないということがその時初めてわかった。みんな座るどころかピョンピョンと飛び跳ねている。たぶん客は百人もいなかったと思うけど、全員同じことをしている。しかもみんな同じような皮の服を着て、汗だくになっていた。もちろんレッドや他のバンドメンバーも舞台の上で飛び跳ねている。でも時々レッドはマイクを持ったままねっころがったりもしている。
これがロックなのか?キッスとはちょっと違う気がした。観客の後ろ、ポッカリと空いた空間に一人ボーッと立っている僕はなんだか馬鹿みたいだった。それにさっきまで涼しかった倉庫もどんどん暑くなり、黙っていても汗がでてくるようになっていた。
一曲目が終わろうとした時、レッドが叫びながら客の中にジャンプして飛び込んだ。レッドの体は客が伸ばした手の上でぐるぐる転がっていた。するとレッドの上半身はたちまち脱がされ、皮のジャンパーはどこかへいってしまった。汗だくのレッドは“ギャー”という奇声をあげ、笑いながら客の中へ埋もれていった。かなり楽しそうだったので、僕も一度やってみたくなった。
でもやっぱり僕はこっそり帰ることにした。とてもじゃないけど、あんなうるさい音楽は最後まで聴けそうもない。家で父ちゃんの“あっつ、あっつ、あ~あっつぅ~”を聞いてるほうがまだましだ。レッドが言うように自由になんて全然なれなかった。あれが自由って言うなら、世の中不自由なことばっかりだ。倉庫から出た僕は焼けつくような太陽の光に少しうんざりしたけど、あの騒音から逃げられるならと、ぶりかえした眉間のかゆみを我慢しながら必死に自転車をこいだ。