その日の夜は蒸し暑く、扇風機を回していても寝苦しくて仕方がなかった。僕の部屋といっても兄貴との共同部屋だ。兄貴は高校受験で遅くまで勉強している。その日も昼間は夏期講習に行き、夜もずっと机の前の明かりを点して勉強していた。僕は布団の中で兄貴の勉強する後ろ姿を眺めていた。開けっ放しの窓からは生暖かい風と、風鈴の音、それに国道を行き交う車の音がしていた。
「ねぇ、楽しい?」僕は兄貴にきいた。
「あっ!びっくりした。なんだ、起きてたのか」
「なんでびっくりしてるの?エッチな本でも読んでるんじゃないの?」
「何言ってるんだ。早く寝ろ」
そう言いながらも、兄貴の鉛筆を動かす手は止まらなかった。
「ねぇ、楽しい?」
「楽しいわけないだろう。受験だから仕方がないんだよ」
「そんなに受験が大事なの?」
「そりゃあ大事さ」
「どうして?」
「どうしてって、将来いい暮らししたいだろう?そのためにはいい学校行かなきゃだめなんだよ」
「ふーん・・・いい暮らしって何?」
「そりゃあ安定した収入があって、いいものも食べれて、いい家にも住んで・・」
「それだけ?」
「それだけって、それだけあれば十分だろう?」
「スーパースターにはならないの?」
「なんだよ、スーパースターって?」
「よくわかんないけど、歌手になったり、野球選手とか・・あと映画とかに出たりさ」
「そんなの無理に決まってるだろう」
「ふーん、無理なんだ・・・」
僕は起き上がり、網戸を開けてベランダに出た。もう十二時をまわっているのに、国道には車が行き交い、時々歩道を歩いている人もいる。それでも昼間とはずいぶん違う印象だった。生まれてからずっとここからの景色を見ているけど、真夜中がこんなにゆっくり動いてるとは知らなかった。街灯の明かりってなんかいいなぁ、夜の間中、僕の知らない時間もずっとああして路を照らしてるんだ・・・。
「お前は将来何になりたいんだ?」
兄貴は突然僕にそうきいた。
「将来?そうだな・・・夜に仕事をしたいなぁ、警備員とか・・あとなんだろう?」
「夜の仕事なんて大変だぞ、みんなが寝ている時に働くなんてやめたほうがいい」
「そうだ、飛行場で働きたいな。飛行機って夜も飛ぶでしょ?あの飛行機の滑走路の電気を点ける人になりたいなぁ」
「電気?うーん、たぶんそれは管制官だな。それなら勉強しなきゃなれないぞ」
電気を点けるだけなのに勉強しなきゃだめなのか。世の中結構厳しいなぁ・・。
僕は急に海が見たくなった。こんなに海が近いのに真夜中の海は見たことがなかった。
僕は部屋を出て行こうとした。
「どこ行くんだ?」
兄貴は振り返りもせず、鉛筆を動かす手も止めないで僕にそうきいた。
「えっ!・・トイレだよ」
僕は一階へ下りて、本当にトイレにいった。それから父ちゃん母ちゃんのすさまじいいびきを聞きながら寝室の前を忍び足で通り過ぎると、こっそり玄関から外へ出た。
真夜中の通りに出た僕はなんだかドキドキした。店のシャッターはどこも閉まっていて、明かりのついた家もまばらだ。街灯は車道を照らしていたけど、歩道にはほとんど明かりもなく薄暗かった。僕が外に出てきた時には歩道を歩く人は誰もいなかったし、車もさっきより減った気がした。いつも見ていたこの通りが、まるで僕のためだけにあるみたいだった。ビーチサンダルのぱたぱたする音が通りに響いた。国道の左右をみると、車が一台も通っていなかったので、僕は車道に出て真ん中の白い線の上を歩いた。ここは僕の路だ。街灯に照らし出された僕は観客がだれもいない舞台のスターだ!さて何を演じようか?僕が見たことのある舞台といえば、何年か前に町にきた旅芸人の一座くらいだ。小さな公民館で子供とじいちゃん、ばあちゃん相手に時代劇をやっていた。僕は友達とお菓子ばっかり食べていたのであんまり覚えていないけど、女の人が踊ってるのがすごいきれいだった。でもあとで聞いた話だと、あれは男の人が女に化けていたらしい。僕には女の人にしか見えなかったけど。どうしてそんなことをするんだろう?僕にはさっぱりわからない。今ここであの踊りを踊れと言われたら、できるかもしれないけどやっぱり恥ずかしくてできない。誰も見てなかったとしても・・。僕は演じるのはやめた。
波の音が近づいてきて、僕は暗闇に吸いこまれるみたいに早足になった。海へつづく石段を下り海岸にでると、西の岸壁にある灯台と、海に浮かぶ数隻の漁船の明かり以外はほとんど何の灯りもなかった。でもそれにしては思ったよりも明るいような気がして、空を見上げるとちょっと青みがかった半月と、たくさんの星が僕と海岸を照らしていた。海は確かに黒かったけど、白波だけはうっすら見えた。この海岸は今僕のものだ!僕は砂浜を走った。それくらいしかやることが思いつかなかったからだ。でも走っていると本当にここが自分だけのもののような気がしてきて、どんどんスピードをあげて走った。いつのまにかビーチサンダルは脱げてしまったけど、それでも走った。もうだめか・・いやもう少し・・・もう限界か・・・いやあとちょっと・・・。僕は暗い砂浜にへたりこんで息をきらした。そしてもう一度空を見上げた。月に向かって走ったつもりだったけど、ちっとも距離は縮まらない。月夜に父ちゃんの車の助手席に乗って走っている時も、僕はいつも“父ちゃん早く!月に追いつけないよ”と一人心の中で焦っているけど、父ちゃんはそんな僕の心とは裏腹にのんびり走っていく。あんまりのんびりなので、時々他の車からクラクションを鳴らされる。
息が落ち着いて、僕は海に入ってみようと波打ち際まで歩いていった。足元に波が打ち寄せ、僕がここにいることを確認するかのように白波が僕の足を舐めては引き、こいつは誰だ?と確認しては引いていく。そのうち僕の膝下くらいまでの大きな波が打ち寄せた。まるでそれは僕に“それ以上来るな!”と言っているみたいだった。これでも海の怖さは知ってるつもりだ。二年前同じクラスの友達がこの海で溺れて死んだ。泳ぎは僕より得意だったし、勉強もできたけど、その時一緒にいた友達にいいところをみせようとしたのか遊泳禁止の場所を泳いでいて、いつのまにか海面からいなくなった。きっと海に逆らったんだろうな。勝てっこないのにさ。
ダッタの父ちゃんは漁師で、時々僕らを釣りに連れてってくれた。ある日、沖にでた船の上で僕は船酔いしてしまい、甲板の隅で転がっていると、ダッタの父ちゃんが近づいてきてこう言った。“海に逆らうからだ。海に逆らったって勝てやしないぞ。魚だって海から獲りあげるんじゃない、海から分けてもらうんだ。必要なだけな。”それから僕はあまり釣りをしなくなった。だって釣りをしなくても、港の市場や魚屋に行けばいくらでも魚はいるからだ。自転車さえ売れれば、僕は毎日でもおいしい魚が食べられる。
海に入るのはやめて、しばらく砂浜に腰を下ろし波の音を聞いていた。月は雲に隠れてしまったのでさっきより暗かった。波がゆっくりと引いていく音の陰に、僕は何かの気配を感じ、辺りを見回した。すると積み重ねられたテトラポットの上に何かがいた。どうやら鳥のようだ。こんな夜に鳥がいるのはおかしいので見間違いかと思い何度も見直したが、やっぱりそれは鳥だった。しかもそれはずいぶん大きい鳥だった。僕は気づかれないようにゆっくりと匍匐前進していった。近づくにつれてその鳥の大きさがよくわかってきた。それはどう見てもカモメより大きく、たまに翼をバタバタさせると二メートルくらいはありそうだった。テトラポットの陰から見上げると、雲からゆっくりと月が出てきた。青白い光に浮かび上がったその鳥は鷲だった。しかも大鷲だ。と言っても僕は鷹との区別がつかない。どっちにしてもこんなところにいるはずのない鳥なのは確かだ。山から下りてきたのだろうか?でもその山にだって今はもうこんな大きな鷲はいないかもしれない。尖ったくちばしに鋭い目、翼の付け根辺りが白くみえた。僕の目はその姿に釘付けになった。とにかくかっこよかった。闇夜の大鷲なんて世界中でもそんなに見た人はいないかもしれない。そう思うと余計興奮した。鳥目っていうけど、今この大鷲の鋭い目は何を見ているんだろう?何も見えていないんだろうか?それとも波打つ海がはっきりと見えているんだろうか?もしかすると海の向こうの大陸が見えてたり・・・。そう思った次の瞬間、大鷲が僕を見た。キッとしたその眼差しに僕の息がとまった。そのままお互いに見合ったまま、大鷲はどちらが先に動くか間をはかっているみたいだった。テトラポットをつかむ、何かの映画で見た魔王のように長くて鋭い爪が、僕に“動くな!”と無言で脅しをかけていた。僕は呼吸が苦しくなってきて、思わず息をはいた。大鷲は海のほうへ向き直り、勝ち誇ったように二三度翼をバタつかせた。胸を凍らせるような生暖かい風が僕の髪の毛を揺らした。そして大鷲はふわっと飛びあがり、僕の頭上を越え海の方へと飛んで行った。薄っすらとした月明かりの下を悠然と飛び去る姿は、まさに正義の味方という感じだった。でもどこへいくんだろう?山へ帰るんじゃないのか?沖に何があるんだ?そして大鷲はゆっくりと僕の視界から消えていってしまった。この海岸は僕のものじゃなかった。あの大鷲のものだ。でもそれでいいと思った。