商店街の一角にある五階建てのビル。一階が喫茶店になっていて、たまに母ちゃんが近所のおばちゃん達とチョコレートパフェを食べている。僕も何度かこの店でプリンアラモードを食べたことがあるが、あんなうまいものはない。一度でいいからプリンアラモードに埋もれてみたい。
バナはこのビルの管理人だと自分では言っているが、掃除したり、電球を新しい物に換えたり、学校でいうところの用務員のおじさんってとこだ。バナの部屋は屋上にある小さな小屋で、そこにはいろいろなものがある。漫画の本から百科事典、テレビとお菓子、レコードにカセッットテープ。冷蔵庫にはジュースにお酒にキューリの漬物。それから蝶の標本なんかもあって、壁には誰か有名な人の描いた絵、それからラジカセからはいつもジャズが流れてて、金ピカのトランペットの百合の花みたいな先っぽだけが山積みの本の向こうから顔を出していた。
「今日は何の用だ」そう言いながらバナはいつものように自分のカバンからバナナを出してきて僕らにくれた。バナナが食いたかったからとは言えないので、僕らは黙って食べた。僕は着替えを持ってきていなかったから海パンにティーシャツを着ただけだったけど、ヤゴとダッタは着替えると言って海パンを脱ぎだした。
「うぁっすごい!」ヤゴがダッタの砂まみれのちんちんを見て目を丸くした。
「ちんちんから毛が生えてるよ!」僕はそれを聞いて、それは一大事だとダッタのちんちんをまじまじと見た。
「本当だ・・」ちんちんからは短い毛が四本伸びていた。おまけに父ちゃんのみたいに先っぽがペロンとむき出しになっている。ヤゴはしきりに自分のと見比べていた。
「へっへっへっ、あんまり見るなよ」そう言いながらもダッタは隠そうともせず、仁王立ちになっていた。
「ダッタ、お前もついに大人だな」とバナはカップ酒の口を開けて飲みだした。
「あれっ仕事中なのにいいの?」僕はバナにきいた。
「あぁいいんだよ。今日はあとゴミ集めくらいしかやることがないからな」
「ゴミ集めって楽なの?」
「楽なもんか、でもゴミ集めまであと一時間もあるからな。一杯だけだ、それまでには酔いも醒めるさ」とバナはグイッとカップ酒を飲んだ。
「手伝ってもいい?」
「ゴミ集めをか?別に構わんが、何にもおもしろいことないぞ。ただのゴミだ」
僕は知っていた。バナの小屋にある漫画や本はみんなゴミで出されたものだってことを。うまくいけば最新号の漫画をただで手に入れられる。
ヤゴは姉ちゃんと一緒に帰らないと僕と一緒にいたことがお母さんにばれてしまうと、ダッタと一緒に先に帰ってしまった。帰り際もヤゴはダッタとちんちんの話ばかりしていた。
時間があるので、僕は屋上の洗濯機の横にある水道で水浴びをした。水を浴びながら遠くに見える山や海、それから昔のお城や山並みに沿って建つ鉄塔を眺めていると、ちんちんに毛が生えてないことくらいどうってことないという気がしてきた。
僕が水浴びを終え、海パンをはいていると、四人の男の人が屋上にやってきて次々とバナの小屋に入っていった。僕はそぉーとドアから小屋の中を覗いて見た。みんなバナと親しそうに話をしている。四人のうち二人は薄い茶の作業服を着ていた。残りの二人はお金がないのか穴の開いたジーパンに破れたティーシャツを着て二人とも髪を逆立て、一人は金髪だった。しかもこの暑いのに金髪じゃない方は皮のジャンパーを着ている。
「おい、カル!紹介するから来い」バナに促され、僕はしぶしぶ小屋の中に入っていった。四人とも僕を見てにやにやしていた。
「こんちは」
「こんにちは・・・」
正直僕はビクついていた。だってあんな人見たことなかったし、金髪の男だってどう見ても外人じゃなかった。どうしてあんな格好してるんだろう?
「この連中は床掃除の人達だ。これからこのビルの床を掃除してくれるんだ。別に貧乏でこんな格好してるんじゃないぞ。ハッハッハ・・・」
「カルっていうんだ。変わった名前だな。」と金髪男が言った。
別に本名じゃない。三年前に父ちゃんの軽トラックを飛び越えようとし、つまずいて足の骨を折った。どうしてそんなことをしようと思ったのか、今じゃ全然わからないけど、その時は飛び越えられる気がした。今やったとしてもたぶん無理だと思う。僕はその時の担任のペペに“カルシウムが足りないから骨が折れたんだ”と言われた。それからというもの僕は給食で余った牛乳は全部飲み、魚は頭から全部食べた。毎日のようにそんなことをしていたからいつのまにかみんなに“カルシウム”と呼ばれ、そのうちカルと言われるようになったのだ。でも今はそんなことどうでもいい。あの人達は貧乏でもないのにどうして穴の開いたジーパンをはいているんだろう。
「ちょっとラジカセ借りていいかい?」と金髪男がバナに言った。その男はバナのジャズのテープを抜き取ると、自分のヘロヘロの皮のカバンからテープを取り出し、それをラジカセに入れてスイッチを押した。するとエレキギターがギャギャギャギャッ・・・となんだかすごいうるさい音楽が流れてきた。ロックだというのはわかったが、こんなにうるさいのは聴いたことがない。僕が知っているロックは“キッス”だけだ。それでも学校では誰もロックなんか興味持っている人なんていなかったから、習字の時間、顔に星のマークを書いてもあんまりうけなかったし、テンパに怒られただけだった。
穴の開いたジーパンをはいた二人はうるさいロックを聴きながら着替え始めた。
「この曲はなに?」と僕は金髪男にきいた。
「セックス・ピストルズさ」
僕にはよくわからない。なんだかすごそうな名前だけど、“キッス”の方が僕は好きだ。
「お前らもこういうのやってんのか?」とバナが金髪男にきいた。
「まあ、オレ達はまだ偽者って感じだけどな。そのうちこいつらを超えてやるさ」
「言っちゃ悪いが、下手くそな演奏だな、こんな簡単なコード進行なのに。やかましいだけだ。ロリンズやマイルスの方がいいぞ」
「演奏がうまいか下手かなんてパンクには意味がない。魂があればそれでいいのさ。」
「魂といえばコルトレーンでも聴くんだな。こんなのよりよっぽど魂がこもってる。」
・・・・何の話か僕にはさっぱりわからない。でも何とか話に加わりたいと思った。
「ねぇ“キッス”は嫌い?」と僕は金髪男にきいてみた。
「キスは好きだぜ。でもあのアホなメイクしてるやつらは嫌いだ」
「俺もキスは好きだな。うん・・」とバナは何かを想像して口元をクチャクチャさせた。
バナはまだ酔いが醒めていないらしい。結局僕の音楽話はこれ以上何もなかった。だって僕は“キッス”の音楽じゃなくて、あのおかしなメイクが好きなだけだったから。
夕方になって僕とバナは五階から順にゴミを集めた。でもお目当ての漫画はなかなか出てこない。鼻紙と書類それに新聞、たまに雑誌は出てきたけど大人の読む難しそうなものばかりだ。だんだん僕はめんどうくさくなってきた。バナは集めたゴミを大きな袋につめると、“うおりゃー!”と気合いを入れ、それを肩に担いで下の階まで下りていく。バナに言われて僕も集めたゴミを下の階まで運ぼうと、“うおりゃー!”と気合いをいれたが、全然持ち上がらない。何度も“うおりゃー!”と叫んだがやっぱり持ち上がらない。自分がばかに思えてきたので、僕は大きなその袋をずるずると引きずって下の階まで下りた。こんなことを大人たちは毎日やってるんだ。そう思うと僕は大人になるのが嫌になってきた。ゴミ集めが終わる頃、僕はもうへとへとに疲れて階段に座り込んでいた。すると何かを持ってバナがやってきた。
「お前こんなの読むか?」と最新号の漫画を僕に差し出した。“やった!”と思って受け取ると、僕の手に何かがべたっとくっついた。手を見るとそれは乾きかけた誰かの痰だった。
「うわっ、きったねぇ!」僕は痰のついた手のもっていき場を右往左往しながら探した。
「ハッハッハッ・・・」バナは腹を抱えて笑っている。
「あー、あー」僕は走って階段を下り、ビルの陰にある水道で手を洗った。そしてその漫画を捨てようと思ったが、やっぱり思い直し、痰のついた表紙だけ破って持って帰ることにした。ゴミとして出た漫画はきれいなら中古本だけど、汚いとやっぱりただのゴミだということを知った。
やっとゴミ集めが終わって、下の階から階段を見上げると、上からさっきの四人がモップを持って降りてきた。僕は突っ立っていて、みんなが僕の前を通り過ぎるのを待っていた。するとそれぞれ何か一言声をかけていく。
「いいなぁ、もう終わりかい?」
「子供はもう帰りな」
そして最後に金髪男も僕に声をかけた。
「ロックは好きか?」
「うん。」僕は特に理由もなくそう答えた。
「じゃあ、自由になりたいか?」
「う、うん」それも特に理由なくそう答えた。
「そうか、じゃあ来週の水曜日、港の倉庫でライヴをやるんだ、見に来いよ」
「ライヴ!?・・コンサートのこと?うん、わかった行くよ」
「俺はレッドだ。よろしくな」
金髪男はそう言うと振り返りもせず階段を下りていった。
レッドか、何か正義の味方みたいだ。でも正義の味方が破れたジーパンをはいて、モップを持って歩いてるわけがないか・・・。それともただ赤が好きなだけなのかな?
そういう僕もさっきからずっと海パンに薄汚れたティーシャツを着て、破れた漫画を持っているけど・・・。
僕が帰ろうとすると、バナは手伝ってもらった褒美だと、バナナを一房くれた。バナからそのバナナを受け取ろうとしたちょうどその時、部屋の電球の灯りが、山積みの本の向こうのトランペットに反射して僕の目に射し込んだ。
「ねぇ、トランペット吹いてみていい?」
「あぁいいよ。吹けるもんならな」
金ピカのトランペットを引っぱり出すと、思ったより大きかった。僕はバナの鼻紙用のトイレットペーパーでトランペットについた埃を拭き取ると、細いほうをパクッと咥えた。
「ハッハッハッ・・貸してみろ」バナはそう言うと唇をぐっとすぼめて、口をあてた。するとなんとも言えないお腹に響く力強い音が鳴った。バナの頬はぷっくりとふくれ、蛙みたいになった。僕はしばらくじっとバナの頬を観察しながら、その音色に聴き入っていた。
「ほら、やってみろ」
バナは僕にトランペットを渡した。僕はバナのまねをして、唇をすぼめ頬を膨らましてみたが、ぷすぅーと母ちゃんのおならみたいな音しかでなかった。いくらやっても同じだった。バナは笑いながら言った。
「そんな簡単に吹けるもんか。もし夏休み中に音がでたらそのトランペットをお前にやるよ」
「えっ本当?じゃあ明日も来るよ」
僕は帰りかけて立ち止まり、こう言った。
「あの金髪の人が僕に“自由になりたいか?”って」
「自由?そんなもの幻想だ。まっ、若いうちはそういうことを言いたがるもんさ。夢を壊すつもりはないがな。自由なんて本当はありゃしないさ」
僕はバナの半笑いの顔を見たあと階段を下りていった。
日が暮れかけた商店街を、僕は口をすぼめ、頬を蛙みたいに膨らましながら歩いて帰った。破れた漫画とバナナを持って。