茅ケ崎市美術館で開催中の展覧会、
“『白樺』日本における西洋美術の導入と広がり”に行ってきました。
(注:展示室内は一部撮影可。写真撮影は、特別に許可を得ております。)
『白樺』とは、文学界および美術界に大きな影響を与えた伝説の同人誌。
武者小路実篤や志賀直哉ら学習院の同窓が中心になり、
明治43年から大正12年にかけて全160号が刊行されました。
本展ではまず、『白樺』の代表メンバーである実篤の絵画が紹介されています。
一般的には小説家の印象が強い実篤ですが、
実は、40歳の頃より画家としても活動をしていました。
本展ではそんな実篤の絵画が数点紹介されていましたが、
個人的に印象に残っているのは、《エジプト従者像のある静物》です。
エジプト像と桃。
どういう組み合わせなのか?!
あまりにも突拍子が無さすぎて、
むしろ何かの暗号なのかとさえ思えてきました。
なお、モデルとなるエジプト蔵は、実篤自身が所蔵していたもの。
彼はこのお気に入りのエジプト像をよく描いていたそうです。
実篤が理想郷を求めて開いた「新しき村」。
その50周年記念で作られた風呂敷にも、エジプト像がデザインされていました。
新しき村なのに、古代エジプトって・・・・・。
と、それはさておき。
そんな実篤と生涯にわたって、“友情”を交わしたのが洋画家の岸田劉生です。
『白樺』が主催したとある版画展をきっかけに、
実篤と交流を持つようになり、生涯の友となりました。
実篤の著書『幸福者』の扉裏にある謝辞には、
「この書を岸田劉生兄に捧ぐ」と掲載されているそうです。
ただ、2人の生まれ年を調べてみると、劉生は実篤の6コ下でした。
・・・・・なぜ、“岸田劉生兄”??
と思ったら、劉生は劉生で、実篤のことを“実篤兄”と呼んでいたようでした。
本当の兄弟というよりは、「ヘイ!ブラザー!」的なニュアンスだったのかもしれませんね。
そんな縁もあって、劉生は『白樺』の表紙の多くを手掛けました。
本展には、それら『白樺』の表紙を含む、
茅ケ崎市美術館が所蔵する劉生の装幀版画が一挙公開されています。
麗子をモデルにした油彩画は多く存在していますが、
麗子をモデルにした装幀版画は、その比ではありません!
とりあえず麗子。
隙あらば麗子。
たぶん『白樺』の本編とは、まったく関係ないのでしょうが、
劉生が担当した『白樺』の表紙の多くに、麗子が登場しています。
公私混同にもほどがありました(笑)。
なお、こちらには『白樺』の表紙以外にも、
劉生が手掛けた装幀の版画の数々が紹介されていましたが。
中でもインパクトがあったのは、千家元麿の『詩集 自分は見た』の装幀です。
そもそも、タイトル自体がちょっと不気味ですが、
謎の文言がグルグルと書かれた表表紙のデザインも不気味ですし、
手でボールのようなものを握る意味深な裏表紙のデザインも不気味。
装幀の不気味さだけでいえば、『変な家』や、
『近畿地方のある場所について』よりも勝っている気がします。
また、展覧会では、劉生を通じて、
白樺派のメンバーと交流のあった画家として、
“大正の鬼才”と称される河野通勢の作品も紹介されていました。
当時の最先端の芸術運動を取り入れた《静物(キュビズム的)》や、
一見するとただの風景画なのに、どこか不穏な空気が漂う《風景》など、
鬼才ぶりが発揮された作品が多々ありましたが、
中でもひと際異彩を放っていたのが、こちらの作品です。
タイトルは、《梨のある静物》とのこと。
確かに、梨も描かれてはいますが、
どう見てもこの絵の主役は、布のほうです。
しかも、使い倒された布。
何でこんな絵を描こうと思ったのか!
答えは、鬼才のみぞ知るのでしょう。
さてさて、本展では『白樺』にまつわる作品だけでなく、
『白樺』の西洋美術を紹介する新たなメディアであったという側面も紹介されています。
当時はまだ日本では紹介される機会の少なかった、
レンブラントやセザンヌ、ルオーを図版を用いて取り上げた『白樺』。
今でこそ日本人に大人気のゴッホを広めた立役者も、何を隠そう『白樺』です。
さらに、彫刻家ロダンの存在を知らしめたのも『白樺』です。
明治43年の『白樺』でロダン特集を組むにあたり、
ロダンに手紙を送ったことから、その交流が始まったそう。
やり取りの中で、ロダンのほうから、
浮世絵と自身のデッサンを交換しないかと提案があったため、
実篤らが浮世絵を送ると、
ロダンによるブロンズ像3体が贈られて
その贈られてきた像が映った写真がパネルで紹介されていました。
《考える人》などの代表作と比べたらなんですが。
1体は、まぁまぁそれなりのサイズでした。
ただ、残りのは、どう考えても小さすぎ。
3体というよりは、1体+おまけ2体です。
ロダンのケチ。













