現在、東京都美術館では、“没後70年 吉田博展” が絶賛開催中ですが。
原宿の太田記念美術館では、吉田博と同じく、
新版画の世界で活躍した絵師・笠松紫浪の回顧展、
“没後30年記念 笠松紫浪―最後の新版画” が開催されています。
大正から昭和にかけて活躍し、
平成3年にこの世を去った笠松紫浪 (しろう)。
たぶん、というか、ほぼ間違いなく、
太田記念美術館においては、もっとも最近の絵師を紹介する展覧会でしょう。
ともあれ、この展覧会をきっかけに、
笠松紫浪がブレイクする可能性は大いにあり!
日本美術ファンであれば、押さえておきたい展覧会です。


旅好き、登山好きな吉田博は、
日本全国の名所や名峰の絵を得意としていましたが。
対して、笠松紫浪は、東京都内の風景を多く描いていたそうです。
《春の夜―銀座》 昭和9年(1934)4月 渡邊木版美術画舗蔵
何気ない光景でも、笠松紫浪の手にかかると、実にエモい光景に。
構図といい、漂う空気感といい、色味といい、すべてが絶妙にエモいのです。
それゆえ、現代の目で見ても、十分に新鮮に感じられました。
いや、現代の目だからこそ、より新鮮に感じられるのかもしれません。
それから、温泉が好きだったのでしょうか、
笠松紫浪は、温泉地を題材にした作品もたくさん描いています。
そのうちの1枚が、こちら。
《信州白骨温泉》 昭和10年(1935) 渡邊木版美術画舗蔵
長野県にある白骨温泉を描いたものだそうです。
また、とんでもないところに、湯船を作ったものですね。
どこで服を脱いで、どうやってここに辿り着くのでしょう??
上からだとしても、下からだとしても、
どちらのパターンでもハードモードです。
長野県の温泉と言えば、こんな作品も。
《信州渋温泉》 昭和23年(1948)2月 渡邊木版美術画舗蔵
新版画を生み出した渡邊庄三郎のもとで、作品を刊行していた笠松紫浪ですが。
昭和23年から25年にかけては、渡邊庄三郎の甥にあたる、
渡邊金次郎という版元から7点の新版画を刊行したのだとか。
そのうちの1点が、こちらの 《信州渋温泉》 です。
ちなみに、渡邊庄三郎に特に断ることなく、
勝手に刊行していたそうで、これが原因で庄三郎との縁が切れてしまったとのこと。
なんだか、昨今の芸能事務所の移籍問題を彷彿とさせるものがありました。
さて、庄三郎との縁が切れたその後、
笠松紫浪は、京都の出版社・芸艸堂と組んで、新版画を刊行するようになります。
モチーフは変わらず、都内の光景や温泉地が多いのですが。
《磐城湯本》 昭和29年(1954) 芸艸堂蔵
渡邊庄三郎時代と違って、明らかに線が太くなっています。
これはあくまで個人の感想なのですが、
それによって、抒情性が薄まったような。
そして、『旅の宿』 のパッケージ感が増したような (←?)。
あのエモさは、いずこに・・・??
笠松紫浪が変わってしまったのか。
もしくは、摺師や彫師が変わったからか。
その答えは、 《箱根湯本の春宵》 という作品で判明しました。
《箱根湯本の春宵》 昭和28年(1953) 芸艸堂蔵
普通に見たなら、そう悪くない作品ですが。
全盛期のエモさを知ったうえで見ると、う~ん。
水たまりは、アメーバのようだし、
女性の顔は、長場雄さんのイラストのようだし、
桜の花は、スパコンの富岳がシミュレーションした飛沫のようだし。
さて、この作品の下に展示されていたのが、笠松紫浪による原画です。
原画のほうはちゃんと抒情的で、エモさがありました。
細かいところですが、原画ののれんはふわっと煽られており、風を感じます。
対して、新版画に描かれたのれんは、
のぺっと垂れているだけで、特に情緒はありませんでした。
新版画も浮世絵も絵師だけでなく、
彫師と摺師と三位一体になって生まれるアートである。
そんなことを逆説的に感じることができました。
ちなみに、出展されていった作品の中で、
「摺師と彫師もっと頑張れよ!!」 と檄を入れたくなったが、こちらの 《日本橋》。
《日本橋》 昭和31年(1956) 芸艸堂蔵
ストライキでも起こしたんか?!
そうツッコみたくなるくらいに、
全体的に大味な印象を受けました。
水面、雑すぎるでしょ。
とはいえ、芸艸堂の名誉のためにも言っておきますが、
芸艸堂から刊行された新版画にも、名品はままありました。
中でも素晴らしかったのが、こちらの 《東京タワー》 です。
《東京タワー》 昭和34年(1959) 芸艸堂蔵
完成したばかりの東京タワーを、
あえて赤では描かないそのセンス。
画面下に描かれた家の小ささと、
タワーの大きさとの対比が、なんとも抒情的でエモかったです。








