今年もツバメが飛来しています。

ツバメを見るたび2つのことを思い出します。

 

 

母とツバメのジンクス

 

1つは、母のこと。

 

実家の車庫に、ツバメが巣をかけた日、母は「ツバメが巣をかける家には幸せが訪れる」というジンクス(げんかつぎ)を持ち出し、喜んでいました。

 

しかし、父が亡くなりました。

 

そして、悲しみにくれた母は、ツバメが来る前に巣を落としてしまいました。

 

 

母は、ツバメに裏切られたような気持と、ジンクスはジンクスであるという現実をつきつけられ、ツバメのフンが車に落ちないように工夫したり、お掃除したりすることをしたくないという現実を選択したのでしょう。

 

 

童話

 

2つ目は、「幸せの王子」の絵本です。

あらすじ

 

 

挿絵:ウォルター・クレイン
 

宝石がちりばめられた王子の像から、王子の命令でツバメが宝石を1つづつ外し、人々に与えていきます。

 

ツバメはセッセと運んで行くのです。

とうとう王子の像には宝石が全て無くなりました。

 

そして、ツバメは寒い中、王子の足元で亡くなっていました。

 

ツバメは、南の国へ飛んで行けば生き延びたものを、王子を想いそこへとどまっていたのですね。

 

 

  作者オスカー・ワイルドの内容は、もっと複雑なのですが、絵本としてはこのような簡単な、しかも衝撃的な悲しくも寂しい物語です。

 

 

王子とツバメはなぜこうしたことをしたの?

自分の命を犠牲にすべきなの?

 

 

 

たまたま、今朝、心理カウンセラーの衛藤信之先生のLINEに幸福の王子のことが書かれており、

 

ただ、「命を削って伝えていくのではなく、命を育てながら伝えることが大切」

 

優しくされた人が次へ渡す、優しさの連鎖が伝わることで想いはより多くの人へ広く長く伝わっていく。

 

と書いてありました。

 

 

「幸せの王子」は、キリスト教圏のお話しなので、オスカー・ワイルドの小説の内容は理解できないところも多いのですが、仏教に置き換えると解釈はどうなるのでしょうね。

考えてみます。