時代の変遷とともに、色々な考え方があって当然だと思いますし、自由に意見を言えることこそ民主主義であり平和の象徴だと思います。

 

しかし、

戦争は何があってもすべきではありません。

 

まして、核武装による核抑止などとは、唯一の核による被爆国の国民が言うべきことではないと私は思います。

 

私たちの先祖が、先輩たちが、どのような思いをして、戦いたくなくても戦いに出され命を犠牲にした今であるか・・・・

 

 

私の身近な人の話しとして、以下お話ししておきます。忘備録です。

 

 

私の母方のルーツである福岡県大牟田市は、第二次世界大戦(太平洋戦争)中の1944年から1945年にかけてアメリカ軍から5回にわたる空襲を受け、1300人以上が犠牲となりました。

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母は高等女学校の学生で、工場や農家へ勤労奉仕に出ていました。

機銃掃射を受けるたびに、畑や川に飛び込み逃げまわったとのこと。

 

母の学校の音楽の先生も、娘さんを抱いたまま防空壕で亡くなっていて、皆でワンワン泣いて出したそうです。

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母は、のんびりしている私に「あなたは、戦時中ならお便所に入ったりご飯を食べているときに、もう撃たれているよ!」というのが口癖でした。

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「もう、戦時中じゃなかし...」と私は屁理屈を言っていました。

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曽祖父は明治廃藩置県ごろの生まれですので、いくつかの戦争を経て、第二次世界大戦では、すでに徴兵される年齢ではなかったのですが、佐世保に戦艦が入港するたびに福岡県知事令で軍属として赴いていたそうです。

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そして、だからこそでしょう。「日本が勝つわけがなか」と言っていたそうです。

大きな声で言えば憲兵に連れていかれる時代です。

金属であれば、鍋釜まで供出しなければなりませんでした。

お寺さんも仏具も鐘も供出していた時代です。

そんな時期、戦争が終わった後のことを考え、油紙に包んで土間の芋床の下に色々埋めていたそうです。

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もう少し戦争が長引いていれば、父も戦争に行かねばならなかったでしょう。

父方の祖父は沖縄戦で戦い、戦後2年して復員してきました。

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大牟田市の病院に勤めていた母方の親戚も従軍看護婦で亡くなりました。

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夫のいとこや私の同級生にも、広島・長崎の被爆二世がおられます。

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私は昭和30年代生まれですが、だれだれさんはヒロポン中毒だからそばに寄らないようにと言われたりしました。

確かに、時々町で、刃物を持って暴れている姿をみたり、自分の腕を切ったりしているのを見ました。

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見た私もショックです。

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戦争は生きて帰っても、精神にPTSDとして傷が残るのです。

「人を殺してはいけません」と教育されながら、国から無理やり「人殺しをしろ!」と言われるのです。

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戦争は最大の人権蹂躙です。

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核は抑止にはなりません。使われた方だけでなく、使った方も「破滅」するのですから。

極端な自国主義は、孤立と破滅につながることを想像できない、SNSの雰囲気だけで盛り上がる若い人が恐ろしいです。

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今の小中学校の教員は「近現代史」をきちんと学び、生徒にも教えるべきです。

戦争・核を我が事として考えることができる子どもたちを増やしておくべきと私は思います。

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