今日はクリスマスです。

数年前に書いた記事の内容を更新してお送りします。

 

私は一応僧侶ですので、クリスマスはいたしません。

お若い僧侶さんの、お寺に飾る「仏花をクリスマスカラーにしてみました!」という写真を見て爆笑しました。

 

 

 

 

コロナ禍や私自身が入院をしてみて、「私という存在」は多くの方のおかげで成立していることをしみじみ感じました。

阿弥陀如来さまの説かれていることが少しわかった気がしました。

 

 

世間のクリスマスとは関係無く、命を救うお仕事や、介護のお仕事、清掃のお仕事をしておられる方は沢山いらっしゃいますので、少し思いを馳せましょう。

 

 

そして、クリスマスから年末年始には、お寺やキリスト教の教会などのボランティアの施し、炊き出しがあります。

 

数年前から、炊き出しに並ぶ方には見るからにホームレスの方だけでなく、様々な方がいらっしゃるようになったとか。

 

不景気と言われる現在、誰が施していただく側になるか分かりません。

 

 

施す側 と 施される側 

 

 

「施すこと」を、あなたはどうお考えでしょうか?

 

多くの人は、「施される側」より 「施す側」でいたいと思われるのではないでしょうか?

 

私も以前はそうでした。

 

そこには「施す側」が優位に立ち、心の中で「してやった」や「良いことをして徳を積んだ」と考えていませんか?

 

そこには知らず知らずのうちに上下関係ができています。

 

東洋人は「徳を積むと良いことがある」という民族宗教的な考えを持つ人が多いようです。

 

この絵を見てください。

 

木版画作品Fritz Eichenberg[F・アイヘンバーグ]作

『炊き出しの列にならぶイエス』

 

出典:京都大学学術情報リボトジ 紅
ゲルマン文化圏における『聖書』の成立
Author(s) 河崎, 靖
Citation ドイツ文學研究 (2020), 65: [1]-[88]
Issue Date 2020-03-25
URL http://hdl.handle.net/2433/250210

 

画家のF・アイヘンバーグがニューヨークのスラム街の公園で、ホームレスの人たちへの炊き出しの様子を描いた木版画です。

 

この絵の特徴は、施す側ではなく、施される側の長い列の中にこそイエス・キリストが並んでおられるということです。

 

キリスト教でいえば、神はどこにおられるのか?と考えたとき、施しの手を必要としている仲間の中におられると見抜いたのです。

 

痛みを知る人こそ尊い。

 

だからこそ、施しをする方も、施を受ける方も等しく同じ、「尊厳をもって接する」。

 

だからこそ、安心して生きていけるのです。

 

 

 

最近の日本は「自己責任」として、困っている人に寄り添わない傾向にあります。

 

もう「自己責任」では何ともできない日本であることに気づきましょう。

 

誰でも、障がい者になったり病気になったり、介護者を抱えたりすれば、ストッパー無しに、底辺まで落ちてしまうかもしれない社会が今(2025年)の日本なのです。

 

これは個人の責任だけではなく社会のシステムの問題でもあります。

 

 

 

溜めること 

 

 

「溜める」ことが大切と湯浅誠氏が書かれています。

「溜める」とはお金の貯蓄だけではなく、人間関係の溜めが必要とのこと。

 

いざという時に、手を差しのべ、差し伸べてくれるという関係性の溜めだそうです。

 

親兄弟がいるから。。。

全くあてにならないこともあります。

 

人に頼ることを、拒否する人。

そもそもこんな自分だからと、人を拒絶した生活を送る人。

 

そこには日本人の「恥の文化」があるから。

他人を頼ることは「恥」ではないのです。

 

近くの誰かが困っていたら手を差し伸べましょう。

 

お互い様と思えること。

 

では、すてきなクリスマスをお過ごしくださいませ