宮下文書の作者と言われる徐福。

日本史以前の人物が富士王朝史を書いたのか?

これに関してはあきらかに否定されています。

文字や文調から幕末以後の作品であると
ちなみに、わたしは偽書ではなく
古文書と考えています。

なぜ、作者は徐福なのか
なぜ、宮下文書を書いたのか
その理由を探っています。




徐福は始皇帝の秦の超越した力を
修得しようとした修行者方士です。
一説には日本とも言われる
東方の三神山へ、
不老長寿の薬を求め旅立ち、戻ることがなかった。
といわれています。

たどり着いたとされる
日本・朝鮮・ベトナムなどでは徐福伝説は多くあります。
日本でも熊野・愛知・広島と候補地は多いです。
おそらく、渡来人は公私ともに来日していて
その地域に貢献し、神などに祀られたのではないだろうか。
もちろん、徐福は歴史上行方不明だ。

日本において徐福伝説を探ってみると
当初は平安時代まで、

貴族中心の一部の人間の
知識にとどまっていたことがわかります。

徐福を一般の人たちが知るようになったのは
鎌倉仏教の広がりと同一しているという説がある。
武士の禅宗、庶民の浄土教の広がりによって
多くの知識が広まった頃と同一だと。
そして、実際に徐福伝説が広まったのは
江戸時代中頃と言われている。

広まった理由として考えられるのは、
幕府や藩が、戦などがなく落ち着いて
領地の実情を整理しはじめたからだ

幕府・藩が歴史編纂し、
飢饉への対策から本草学者が
薬物学の観点からリアリティを付与し、
観光地がランドマークを作り、
出版メディアがそれを全国に宣伝したから
です。
いまでいう、地域の掘り起こしをつながった
それは、知識の共有につながり
そのなかで「あの人は徐福だった」という神話が
いくつもできたのだろう。

そして、徐福伝説の日本最古がここ富士吉田市にある。
天文23年(1554年)福源寺の「鶴塚」(下吉田)にです。
「鶴塚」というのは「徐福」とされる人物の死後、
鶴に化身して村人を見守り、
その鶴は福源寺の境内で
息を引き取ったと言われていることから、
鶴塚を築いたという伝説が残されている。

その背景には
富士山があり修験者も多く
富士山を蓬莱山に見立て登っていたのだろう。
そこから渡来人や、噴火の復興にあたった人物を
徐福と見立てたのかもしれない。

その人物は、秦氏という推測もあるそうだ。
貞観噴火の対応した朝廷は
宗教的儀式以外は
自助による復興に任せた、いわば放置だ。

しかし、その祭祀を行う河口浅間神社に
有能な人物をよこした
河口浅間神社の初代祝 伴直真貞だ。

出身は秦氏の系列とされている。
青木ヶ原、富士の大きい湖が溶岩で埋まった
貞観噴火で壊滅した北麓を
新たな区画整理・水路の確保・農業から機織りへの収入の確保などにより
復興に努力し後に、その功績は
「波多志神」として祀られているほどである。
これが、徐福のストーリーの原初モデルとなったと考えられます。。

宮下文書が徐福に「富士王朝」を説明させているが
それだけでなく、「徐福」というこのあたりの

神に語らせたかったように思えてしまいます。
もちろん、権威のあるものとしての一面はあっても

次はなぜ、誰が宮下文書を書いたのかを考察していきます


クローバー最近の人気記事クローバー 

 

 

 

 

 

 

 

今の時代、知らず知らずのうちに

息を詰め、肩に力が入っていませんか。


まずは週に一度、その重い肩を下ろして
「芯の疲れ」を抜く時間を作ってみてください。

🌿 毎週木曜23時・無料一斉遠隔ヒーリング ただリラックスして受け取るだけで、
身体がふっと軽くなる感覚を。

▼ 無料登録・詳細はこちら
▼ [リンク:運命のリコンストラクター 公式メールセミナー]
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

クローバー【私の活動の見に来たい時は】クローバー

 バラプロフィール

 バラスピリチュアルテレビでの無料ヒーリング

アプリコットブレインのヒーリングを無料でお試しいただけます

こちらへhttps://spiritual-tv.com/

水曜日20時から行っています

赤M子メール気軽にお問い合わせ下さい! 各種サービス、お問い合わせはこちら!

apricotbrain@gmail.com