富士吉田市大明見(おおあすみ)。
大明見という名前の通り、
富士山がどこからでも大きく見えるこの場所に、
小室浅間神社はあります。

今回は、宮下文書が見つかったこの神社の立ち位置についてお話しします。
紀元前92年頃、阿曽谷神社を鎮祭したことから始まると伝わるこの神社ですが、
現在の地に遷座したのは1686年のことでした。
時は徳川綱吉の頃、まさに元禄時代に入ろうとする時期です。
時代劇などでは「江戸経済の最盛期」として捉えられがちですが、
実際には経済のベースが米から金(貨幣)へと移り変わり、
庶民の間に「旅」という娯楽がこれから芽生えようとしていた時期でした。
その後、1707年に宝永の大噴火が起こります。
御殿場側にある須走口は大きな被害に遭いました。
風上から少し逸れた北側のここ吉田口に降った灰は、空を真っ暗にし、
鳴動(地鳴りや爆発音)による凄まじい恐怖をもたらしましたが、
街や登山道が物理的に破壊されるまでには至りませんでした。
しかし、壊滅した須走口より被害が軽いとはいえ、
畑に降った火山灰は
地元の人々は「農作物が取れない」という死活問題に引き起こします。
ところが、皮肉なものです。
江戸では富士山への興味が異常なほど加熱していました。
死の恐怖に直面した地元とは裏腹に、
江戸の大衆には「恐ろしい火を噴く山だからこそ、一度見てみたい」という、
とてつもない『怖いもの見たさ(娯楽としての好奇心)』が生まれていたのです。
当然、御師たちはこの思いがけない大衆の熱狂に懸け、
江戸などで富士講を組織しました。
数年で北口本宮冨士浅間神社が社殿などを整備し、
吉田口はいち早く彼らを受け入れる準備を整えました。
では、この大明見の小室浅間神社はどうだったのでしょう。
明確な記録は見つかっていませんが、
私はここにも「宿坊」があったと推測しています。
理由は、実際に現地へ赴いたことで気づきました。
禊(みそぎ)のための清らかな小川が流れ、
その奥に神殿が構えている。
それはまさに、富士講の客を迎え入れる御師の宿坊の形をそのまま捉えているからです。
(ちなみに、全7巻に及ぶ宮下文書が泥水の中から見つかったのも、この境内の小川です)
大衆の熱狂を受け入れたかつての姿を想像させながらも、
小室浅間神社は現在も、
「農業や織物、地域の暮らしを守る産土様(うぶすながみ)」として、
静かにこの地を守り続けています。
吉田口における富士山登山の最盛期は、
宝永の噴火後から江戸時代の終わりまで続きました。
しかし、明治に入り、その状況は一変します。
次回は、その激動の時代背景の中で、
なぜ「宮下文書」が生まれたのかを考察してみたいと思います。
最近の人気記事
今の時代、知らず知らずのうちに
息を詰め、肩に力が入っていませんか。

まずは週に一度、その重い肩を下ろして
「芯の疲れ」を抜く時間を作ってみてください。
🌿 毎週木曜23時・無料一斉遠隔ヒーリング ただリラックスして受け取るだけで、
身体がふっと軽くなる感覚を。
▼ 無料登録・詳細はこちら
▼ [リンク:運命のリコンストラクター 公式メールセミナー]
📩 今月のヒーリング受付中!
▶ メニューと料金のご案内はこちら
→ [ヒーリングメニュー一覧ページこちら
]
【私の活動の見に来たい時は】![]()











