生成の門は超難関である。
認識の門は難関だが克服できる。
存在の門は既に克服済みみである。
生成門
物が実在すると考えるのが唯物論で、物が実在しないと考えるのが唯識論である。
物が実在しないなら何が実在するのだろうか。
仏教ではそれを空という。
空からすべてが現象する。
では空とは何だろうか。
現代風に言うならそれはフラクタル・カオスである。
フラクタル・カオスから秩序が現象が自己生成する。
自己が自己を生むのである。
自己とは何だろうか。
自己生成する何かがある。
それが真の実在である。
それをプラトンはイデアといった。
イデアを探す探究を続けているのが四次元能である。
しかし、まだ成功していない。
何故なら超難関の生成の門があるからである。
生成の門に入るためにはその前に存在の門と認識の門をくぐらなければならない。
存在とは存在する物・モノ‣者である。
人間は既に存在者として生まれてきている。
だからその門はくぐっている。
ただ、自己認識していないのである。
だから認識の門をくぐって克服しなければならない。
そして生成しなければならない。
生成とはイデアの門に通じる門である。
しかし、生成の門に入って出て来た者はまだ誰もいない。
イデアは実在するが実体がない。
だから見ることも触ることもできない。
超越界なのである。
空なのだから直接には接することができないのである。
ではどうすれば良いだろうか。
プラトンはその方法をロゴスに頼るのではなく物語(ミュートス)と語れと言った。
ミュートスは神話と訳されるが本来は言語ゲームと解釈するべきだろう。
その後、真理の探求は科学や哲学や芸術と言った分野に分かれそれぞれ深化したが、未だ、イデアを見たものはいない。
科学はむしろイデアを否定する方向に進んでしまった。
一方でプラトンを受け継いだプロティノスは物語ではなく経験を重要視した。
経験こそが真理探究の方法だとしたのである。
経験に頼ると神秘主義になる。
多くの宗教は神秘体験を重視するから経験的である。
いずれにしてもこれが真理=イデアだという決定版はない。
だからこそ探究する価値があるだろう。
イデアは触ることも見ることもできない。
そんな空のような超越的な世界を果たして語れるのだろうか。
語り得ないものは沈黙するしかないといって匙を投げたのは言語ゲームの元祖ウィトゲンシュタインである。
その意味で四次元能の臨床は語れないものを語る=言語ゲーム=SF物語(サイエンス・フィクションではないサイエンス・ファンタジー)である。
語れないものを語る=言語ゲームとはどんな物語だろうか。
サイエンス・フィクションだって語れないものを語っているではないか。
量子論だって超ひも理論だって似たようなものである。
波束の収縮というのは存在しないモノが存在するということを物語るための道具立てである。
物ではない波が存在するという意味では存在をベースとしているから存在論である。
つまり、その波が観測することで物に変身するという存在の物語なのである。
実在するのは波なのである。
その意味では空=イデア=波とすると量子論はイデア論や唯識論に近いことになる。
量子論は先端の唯物論的物理である。
それが非物⇒物質という図式を持ち出してきたのである。
これは物理学=唯物論が崩壊したことを意味するのではないだろうか。

