28歳の秋のことです。

 

仕事が終わり、友達とワイワイおしゃべりしていたとき
携帯電話の留守電に気がつきました。

 

嫌な予感・・・

 

「大変なことが起きた。急ぎの用事だから すぐに連絡を」
実家のご近所のおじさんの 低くて静かな声でした。

 

幼い娘を保育サポーターさんのお宅に預かっていただき、郊外にある実家へ車を飛ばしました。

 

夜の国道は全く混んでいなかったのに、とてもとても長い時間と距離に感じました。

 

実家の前には救急車とパトカーがとまっていました。

 

座敷には何人も人がいたはずなのに、首をうなだれ、私を一切見なかった母の姿しか記憶にありません。

 

その奥の部屋には、布団に横たわった父と医師、警察。

 

すでに息をひきとった父との対面。

 

そのときの感情がどんなものだったか、全く覚えていません。

 

弟や親戚に電話をして事情を説明し、葬儀の手配をし、

 

事業に失敗し負債を抱えていた父へ返済の催促の電話の対応をしながら夜は更け、朝がきました。

 

 

この出来事の1年くらい前、父からお金の相談を受けるようになっていました。

 

事業の整理方法について色々提案しても全く聞く耳を持たない父。

 

何度も何度も断っても、絶対に自分の考えを通そうとす

 

「絶対に迷惑をかけないから」 

 

という言葉を信じていたわけではないのに、結局、私は連帯保証人にまりました。

 

それから1ヶ月も経たないうちに、私の家には昼夜問わずの電話が鳴り響くようになりました。

 

父は、約束を守れませんでした。

そして、母と共に雲隠れしてしまいました。

 

電話をしてもつながらず、次第に探そうという気持ちが薄れていきました。

 

自分たちの生活が静かに送れるように奔走することに精一杯の毎日。

 

 

しばらくして、ある日突然 母が現れました。

 

「〇〇(娘)に会わせて欲しい。お父さんがどうしても会いたがっているから。」

 

一方的でした。

 

今 どうしているのか尋ねても、それには一切答えません

 

「そんな身勝手な人間に 大切な娘を会わせたくなんかない」

 

私は、突然消えて、突然現れた母に怒りをぶつけました

 

「どうして親にそんなことが言えるの。孫に会いたい気持ちがわからないのか。」

 

(私の)子供のときと同じように逆ギレする母が許せませんでした。

 

それから数日後、娘を幼稚園へ迎えに行くと

 

「おじいちゃんとおばあちゃんが来られましたよ」と先生。

 

「そうですか」 と平静を装いましたが、心のなかは怒りでいっぱいでした。



「おじいちゃん たかいたかい したりして楽しそうでしたよ」
 
父が(私の)娘と過ごした最後の時間です。
 
 
 
父がこの世を去ってから、葬儀に関すること、事業等の整理、裁判、母のこと、家庭のこと、仕事に追われ、悲しみを感じる時間がありませんでした。
 
ただただ 突っ走る数年間。
 
私は、母を憎みました。
 
でも、葬儀が終わってすぐに家を探し、母と同居しました。(5年後に別に暮らすようになりましたが)
 
母のガンがわかってからは 闘病生活を共にしました。
 
憎んでいるのに そんな生活ができたのは、夫婦喧嘩ばっかりして 「もう離婚したい」とまで言った父の遺書に
 
「お母さんのことを頼んだ」 と書いてあったから・・・。
 
そのひとことのために 必死で頑張りました。
そのひとことがあったから頑張れました。
 
自由奔放に生きて、勝手に死んでいった父への憤りと、助けることができなかった罪悪感。
 
こんなことがあっても淡々としている母への怒り、憎しみ。
 
この感情を手放したくて、すべてを許せるようになりたくて教会へも通いました。 
 
でも、ダメでした。許せない自分を責めました。
 
苦しくて苦しくて、それがイヤで仕事に没頭しました。
 
成果もだして やりがいも感じていたはずなのに、いつしか いつも笑っていたはずの私の顔からは笑顔が消え、能面のようになっていました。
 
喜怒哀楽も感じない廃人のような生活を送っていました。