おはようございます!
明日もっと子どもと話したくなる
親子のコミュニケーションサポーター おんじるみこ です
私は今、「親子のコミュニケーションサポーター」として活動を始めたばかりですが
ここに至った経緯を自分の記録として残しておきたいな~って、ふと思ったので…
あと私ね、ぱっと見にめちゃくちゃ几帳面で
キチッ!キチッ!と物事を理路整然とこなすみたいなイメージもあるみたいで![]()
実はこんな人です
みたいなのも書きたかったので…
たぶん(いや絶対)何話かに分かれるので気長にお付き合いください(笑)
○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●
私の息子は【自閉症スペクトラム】と診断されています
もうすぐ小学6年生
2歳半健診で発達の遅れを指摘されたのがきっかけで
私の自分探しの旅が始まった気がします
なぜ子どもの発達障害で自分探し??と思われるかもしれませんね…
息子にその可能性があると言われ
発達障害のことを知れば知るほど自分の胸が締め付けられるんです
もしかして私は子どもに関心がないのかも…
もしかして私は愛のない人間なのかも…
もしかして私は人の愛し方を知らないのかも…
もしかして私は誰にも愛されていないのかも…
もしかして私は両親に愛されなかったから自分の子どもも愛せないのかも…
一見、我が子の発達障害とは関係ないように思うかもしれませんが
上に書いたひとつひとつがクリアになっていく度に
少しづつだけど息子の特性が目立たなくなって来たんです
(私の見方が変わったのもあると思いますが)
そこに直面し、向き合い、受け容れ、手放すまでは実に8年かかってます(笑)
(今も継続しているものもあります…)
てことで私の幼少期までちょっとタイムスリップ~゚・:,。゚・:,。★゚・:,。゚・:,。☆
1972年7月1日 広島県三原市幸崎町で三浦家の次女として生まれました
海のすぐそばで生まれて母方の祖父は船大工さん
よく作業場に遊びにいってたな~
父は近所の造船所で働き、母は自宅兼店舗でうどん屋を営んでいました
当時の記憶を辿ろうとしていつも躓くんだけど
祖父の顔は思い出すけど父・母・姉
そして生まれたばかりのはずの妹の顔… というより
みんなが存在しているという記憶がまったくないんです
いつも思い出すのは一人だった私…
家族で食卓を囲んだ記憶がゼロ…
幼稚園年少組だけを幸崎で過ごし、その後三原の中心部近くへ引っ越すまでの
思い出といえば幼馴染のヒロくんと毎日毎日遊んだことと
三輪車に乗れたことくらい(笑)
きっと家族そろってご飯を食べたこともあるだろうし
姉妹3人がキャッキャ言ってる日もあったんだろうけど
完全に私の頭の中から抜け落ちている…
のちに母から、順風満帆でお金にもさほど苦労していない日々から
父の転職を機に(俗に言うねずみ講なるものに手を出していたらしい)
借金取りに追われ、親戚から見放され
明日のお米をどうするか… という日々へと変わっていったと聞かされた
(その話を聞くまでにも40数年かかってようやっと聞けた
)
当然母は父を責め、父はそれから逃れるように家にはほとんどおらず
仕事との相性も悪かったため、母が朝昼晩とパート三昧
それでも家計は苦しくて今のようにちっちゃい袋でお米は売られていなかったので
まさにその日暮らし… うどん屋でそれこそ一杯の掛けそば状態
お店に入って母が何食べたい?と聞いてきたので
「白飯!!」と叫んだのが記憶にある(笑)
両親が家にいないのが当たり前で姉がご飯の支度をしてくれていた
私が年長くらいだったから若干小3??![]()
幼稚園では突然雨が降り出すと
「♬雨雨フレフレかあさんが~蛇の目でお迎えうれしいな~♬」
でみんなお母さんが迎えに来てて
最後の最後まで先生と母を待ってみるものの
一度も来てくれたことはなかった
両親の仲はといえば、一向に良くなる気配はなく
相変わらず父は家に居なかった・:,。゚・:,。★゚・:,。゚・:,。☆゚
○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●
その後小学校に上がり、友達との距離感が分からず
孤立し自由に表現することに臆病になりながら
どこから来たかもわからない正義感と責任感に押しつぶされる話は
また次回に♪
まるまるっと経験してきた私だから作れたコミュニティでみんなの笑顔と明日をサポート!!
誰かの想いが水面に落ちた雫のように伝播し影響を与える…
笑いも勇気もやる気もエネルギーも
そんなコミュニティを作りました![]()
コミュニティ活動第一弾は
ibマッピングについてはこちら![]()
お茶会・イベントについてはこちら![]()
