どうもー!
高井です。
今日はね、つい先日に僕と咲友莉ちゃんとで
続けているTAKAI KE partnershipのLINE@でね、
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そこでね、
とある質問者の方からのご相談に
ふと思いついて、えいちーずに
聞いてみたお話がめっちゃ面白かった、
というか難解すぎて笑えました(笑)
でも、とっても大事なことを
言っているのだけはわかります。
で、せっかくなんでこちらでもシェアを
しようかなと。
読みづらいってね(笑)
抜粋しますね。
ご相談内容です「どんな関係においても、決めるのはいつも『自分から』というのは変わりませんか?」
★はるくんからの回答〜
そうですね。どんな関係であったとしても、その関係をどうするのか、どうしていくのかは常に自分からとなりますね〜。それはなぜか?というと、どんな生き方であったとしても、ご相談者さんの視点でご相談者さん自身が関わる人生だからです。
せっかくなので、ちょっと抽象的なことですがこの辺についてえいちーずとの会話を(笑)
あなたは鏡などを使わないで直接あなたの顔を見たことはありますか?
どんな人であったとしても、自分の顔を直接自分で見ることはありません。
それはどうしてかというと、我が必要であり、我が一番必要ないものだからなのだそうです。
自分が見えない視点の中で、確かに自分という存在を認知することは触れたり、感覚を確かめればできます。
しかし、それを認識するために、我々は”我”を持ち自分であることを意識します。そして、いろんなことを経験するまでは、この”我”を追い求めるのですが、その”我”が強すぎるがため、うまくいかないことにも出会うこともあります。
自分が自分であるためには”我”が必要であり、自分自身の人生を歩み、確かな存在であることを確認すること、これを「アイデンティティー(自己同一性)」と言います。
つまり、自分という存在(肉体)は、自分が自分の行動をコントロールをし、選択を重ねることで自分の足で歩くということを自分自身で認識するということです。それほど、自分という存在は脆く儚くなっていきます。自分のことは自分が一番わからないという所以です。
しかし、それがいつしかことを成していく過程で、自分という存在が逆に邪魔になっていきます。というか、自分という”我”がないほうがうまくいくときがくるという話です。
この”我”が邪魔になるという話しは、また長くなるので聞きたい人は「聞きたい」と僕にメッセージしてください(笑)
ということで(笑)
どんな人生であっても、あなたはあなた以外の目線に実際になることはできません。ということは、選択することができないのです。なので、どんな関係性であったとしても、関わるか、関わらないかなどはあなたから決めることです。それが例え職場の上司であったとしても、関わるか否かはあなたにしか決められないのです。
ということで、本日はここまで〜
ここまで更新した後、すんごいたくさんの方から
聞きたいとメッセージをいただき、
翌日にこの続きの話しを更新しました。
いや、朝から濃すぎるよ・・・
ケインかよっ(笑)
これも読みづらいから抜粋しますね。
簡単にいうと、自分という存在の希薄さを求める氣持ちが”我”となるというお話しでした。そして、その”我”があるということは、意識である”我”が自分自身の実存である身体を動かせるということを確認し、実感している証拠なのですね。
ということで、本日はこの自分を確認している”我”が邪魔になるときのお話しをしましょう。
さて、この”我”ですが、自分が自分であるという確認の中で生まれてくるものですが、これは身体と意識である”我”を繋ぎ止めているものでもあります。赤ちゃんが生まれたばかりの時には、この”我”というものはなく、自分の手を自分で動かしているという感覚は希薄なのだそうです。自分の手を自分でしゃぶり、その時の感覚を元に自分の”もの”だと認識していきます。ただこの段階では、意識というものはとても
小さく、自分という存在を意識の中で形成してはいません。それは”我”がないということです。次第に成長を重ね、その中で自分という存在を作り、”我”が出来上がっていきます。その中で自分という存在の周囲にある環境も、親→幼稚園(保育園)→小学校→中学校→高校などと次第に関係していく人との関わりと自分の身体を常に動かし、無意識に動かせる、動いている中で一旦の”我”というものが完成します。自分と他人にある程度完全なる線引きをした状態です。
そうすることで、自分という存在をはっきりと認識し、身体と意識を統合した状態になります。これは自己の確立とも言えます。
そして関わる他人がどんどんと増える中で、より大きな”我”へと変化を望むようになります。しかし、より大きな”我”を望む中で、一つ問題が出てきます。それが、身体との繋がりです。身体という器という制限の中では、身体の大きさ以上は意識を拡大することが出来ません。自分という存在自体が、”我”の成長を皮肉にも制限してしまっているのです。
しかし、この”我”はより大きく成長することを望み、他人の意識を巻き込んで、大きな”我”になろうとします。その中で”我”は
個人の身体を手放し、自分という存在を意識しない、確認しないことによりより大きな”我”へと変化を遂げることが出来るようになります。これがつまり「自我」を手放した状態になります。
言葉を変えるなら、個を持たず、全である意識の元行動するようになるということです。
これまでの”我”は個であることを目的にしていきますが、この個であるという”我”を昇華させて、個から全、つまり一つの”夢”や”大望”という形にすることで、より大きな”我”へと変化をしていきます。
その中では、私が私であるというかつての”我”は一つの大きな”我”の中では邪魔になるだけであって、全体という一つの”かたまり”としての意識へと変化を遂げ、一個人の選択ではその”かたまり”は動かなくなりますが、全体の意識次第で動きます。
また、自分が自分であるという”我”は身体と意識を繋げているものですが、それでは個人の視点でしかものは見えていきません。視座をあげる時には身体と繋げることは邪魔になります。身体という器を脱ぐことで視座という意識を街、国、世界、宇宙という視座に向けることができるということです。
という感じです(笑)
LINE@の投稿って、1回で1500文字更新できるんだけど、
1500文字でも足りないっていう![]()
ちょっと端折ってしまっていることもあるけど、
何となくでも良いので、自分という”我”について
知っておいてもらえるといいかなと。
今の時期ってとても大事でね、
下地をしっかり作っておく必要があるんだって、
それは年齢とか性別とか関係なく、
日本語が読める人は全員に言えることらしい。
えいちーずの話してくれることってね、
何年かした時に、まさにそれ聞いてたわ!!
って驚くことが本当にあって。
先日もとある方のお話しを伺っていたら、
数年前から言われていたことがそこで
出てきて、まじかー!!!
それって本当だったんだーって(おい)
こりゃ、ヤベェってなりましたね。
この”我”というのって、この後めっちゃ複雑に
なるんだけど(笑)
それも今度更新しようかと。
やるやる詐欺になっているのが結構ありそう(笑)
ということで、何か質問とかあったら、
お氣軽にメッセージなりコメントなりを
くださいな。
ということで、今日はこの辺で。
まったねー



