日野原重明
「生涯現役・いつか死ぬということを忘れず、今日を徹底的に生きることです。」
1911年(明治44年)10月4日生まれ
2017年(平成29年)7月18日逝去
享栄105歳
医師・医学博士。聖路加国際病院名誉院長、聖路加看護大学理事長・同名誉学長、
(財)ライフ・プランニング・センター理事長などを務めた。
第二次世界大戦、よど号ハイジャック事件、地下鉄サリン事件などを経験しながらも
医学の道において、臨床研究や医学教育、看護教育などの発展に努めてきた。
医師として多くの患者と接し、人の最後を見届ける中で、身体的に健康である
というだけでなく、人生の充実とは何か?生命とは何か?病む人やその家族とともに何ができるのか?何をすべきなのか?
深く真摯に問い続けてきたひとである。
晩年は100歳を超えてスケジュールは2~3年先まで一杯という多忙な日々を送っていた。
命の続く限り現場に立ち続けるという信念を貫いており、生前には少なくとも110歳まで現役を続けることを
目標にしていると語っていた。
今回、日野原氏の医師としての仕事への熱意、そして精力的に前向き取り組む行動力と精神力はどこから来るのか?
その魅力にひかれレポートを作成しました。
Birth(もって生まれた資質、性格、個性。生きる姿勢やその人の潜在能力)17-8
太平洋戦争が始まる半年前、京都帝国大学の大学病院から聖路加国際病院の内科へ赴任。
聖路加病院はアメリカ聖公会の宣教師ルドルフ・B・トイストラー先生によって1902年に開設された。
その聖路加に勤めて初めて、その病院のシステムが、京都帝大の大学病院に比べて非常に進んでいるのを見て、
アメリカの医学はこんなにも進んでいるのかと痛感した。
その間、聖路加の図書館へ出入りする仕様パスをもらい、アメリカの雑誌や専門書、
あらゆる分野ジャーナルやテキストブックを読み、日本の医学と全く違うと実感する。
アメリカの情報を日本医師に紹介する雑誌「アメリカン・メディシン」を編集し発行した。
その後アメリカへ一年留学し、帰国後は病院の研究システムを革新し、
専門医をどう育てるかアメリカの制度を取り込もうと努めた。
日本で最初に人間ドックを開設、早くから予防医学の重要性をとき終末期医療の普及に尽くすなど
長年わたって日本の医学の発展に貢献してきた。
「成人病」と呼ばれていた一群の病気の名称を「生活習慣病」と改めたのも彼である。これには25年という年数がかかった。
今ある現状を理解し、発展させるよう学び研究し、行動に移し、現実にする。
彼が実行してきたことは、まさに17-8の資質、生きる姿勢が現れている。
Destiney(人生における使命や目的、何を実現させていくべきか)17-8
1970年日航機よど号ハイジャック事件に遭遇し、人質となる。
4日間拘束されて死を覚悟したが、平壌の金浦空港で解放される。
空港の大地を踏んだ時「これからの私は、与えられたいのちを生きる私だ」と心の底から思ったと言っている。
また、「自分の名誉ではなく人のために何かをするのが私の使命だ。
人がやったことがない事を勇気を持ってやってみようと決心をして、行動が非常にリアルになってきたのを自分自身に感じた。
それが私の生きる哲学です。」とこの事件をきっかけに自分の使命は何かということをしっかり認識し
決意を固めることができたと言っている。
しかし、当時の医学界や大学教授会は非常に保守的で、ドイツの医学が主流だった日本の医学にアメリカの医学を取り入れるのは抵抗勢力も多く困難だったがその後プライマリ・ケアを取り入れたり、ホスピス設立など医学の改革を実現に導いた。
80年近くを医師として生きてきた私の至上命題「患者中心のあるべき医療の姿」が、
これから若い皆さんにどのように受け継がれていくのか、楽しみでもあり、期待するところでもある。と晩年語っている。
使命を果たすため全力で問題に取り組み、周囲をコントロールし、自分が先頭になり、
グループ・組織を作り、自分の志を主張し実現する。
「患者中心のあるべき医療の姿」がまだまだ改革は必要だが、現在の医療の現場に取り入れられている。
彼が使命を全うする姿は、誠実で真面目、堅実で人の上に立つ人、組織し、管理運営する17-8そのものである。
Soul(一番大切にしたい価値観 優先したい事) 5
医療だけにこだわらず、音楽や芸術の分野でも活動し、人生の岐路に立った時には哲学者の言葉を引用するなど
多趣味多才であった。
趣味の一つにピアノがある。大学在学中に結核を患い休学、闘病生活送っていた当時「ノクターン」を作曲した。
2015年には全国学校音楽コンクール(小学校の部)課題曲「地球を包む歌声」の作詞を担当した。
レオ・バスカーリア作の絵本「葉っぱのフレディー~いのちの旅」のミュージカル化に当たっては
日野原氏が企画・原案に携わった。
生き方においては、宣教師であった父から教えられた「三つのV(Vision,Venture,Victory)-ビジョンを描き、
果敢に挑戦することによって、勝利への道が開かれる」のもとに進んでいた。
サイエンスに偏った医学ではなく、芸術を患者のケアに取り入れるなど、
芸術と医学を結びつける自由な発想や豊かな経験を智慧を変えて発揮できたのは#5の性格が活かされているからだと思う。
Personality(社会的な仮面、他者の目に映るその人の表面的人格) 12-3
日野原氏は日々の仕事の中で、疑問に思ったことをどうしたらよいのかと問いかけ、
患者の為に何ができるのかを考え、研究して、行動し、医学の世界を常に発展させていった。
日野原氏の活動の一部を紹介します。
・1948年には、初めてインフォームド・コンセントをやる。
・1980年聖路加看護大学に修士びコース、博士のコースをを作る。
・2010年ナースの麻酔科医をつくるコースを看護大学設置した。
(法律では認められていないが決心して作った)
・ホスピス・緩和ケアの導入など
・2000年90歳で人生の最後を思い切り元気に生きてみようという75歳以上の意気盛んな老人を集めて、「新老人の会」を組織した。
新老人の会のスローガン:
第一「愛し愛される事」第2「新しいことを創めること」第3「耐えること」
そして「子どもたちに平和と命の大切さ伝えること」
新老人の会の活動の一つとして10歳の児童を中心に「いのちの授業」の活動をはじめた。
・2000年89歳で「葉っぱのフレディ」のミュージカルの舞台に出演。脚本を担当
・2010年99歳で「葉っぱのフレディ」をブロードウェイで上演
カーテンコールで子どもたちと踊る。
というようにいつも時代の社会情勢を把握し、医学・芸術などいろいろな分野を取り入れて医師・看護師・患者・老人・子どもたちの為に新しい世界を創り、精神的喜び与えていた。高齢にして元気に楽しく活躍している本人の姿は、たくさんの人に生きる勇気を与えていた。
Realization(今回の人生での可能性や実現性) 16-7
カルミックナンバー16-7は真理の探究
日野原氏は戦争体験やハイジャック事件で人質になるなど自ら生死に関わる体験をしている。医師として常に人の生死にも関わっていた。
たくさんの経験を積んで、命の大切さ・愛の大切をさ知り、
常に「命とは。生きるとは。生きがいとは。どのように生涯を終わらせるか。」を探求して
世の中に伝えていった。日野原氏にとって、「命」の真理の探究そのものが、
彼の生きるエネルギーの源であったのではないかと思う。
Stage(その人が活躍する舞台)8
「医師として」日野原氏の書籍の中で何回も出てきた言葉である。
幼少期に急性腎炎、青年期に結核を患い学校を休学し、その時ピアノを習い音楽の道に進もうとしたが
父に反対され医学の道へと進む。
第二次大戦の時も大日本帝国海軍軍医少佐に任命されるが、急性腎臓炎のため入院となり除隊した。
その後、医師として自分の道を生きるしかないと考え京都から東京の聖路加病院へきた。
自分ではコントロールできない力で医師の道へと導かれているようである。
医学の道に進んでからは、徹底的に自分の意志を貫いて、知識と経験を積んできた。
アメリカへ留学して学んできたことを日本の医学に取り入れ、色々な組織を創り、理事長などに就任する。
医師として活躍することが彼の舞台であり、#8の性質のパワフルでその実行力と不可能への挑戦と開拓をすることを
生涯貫きとおした。
Challenge(課題・挑戦)3
「次世代に平和と命の大切さをのべ伝える。
死の教育:死を考えることは高齢者だけの問題ではなく、重病人だけの問題でもなく、
若い人の問題でもあることがわかるはずである。その意味においても、若い時代から死の教育に触れることが、
その人に生きる意義を教え、その年代に応じて生きか方の選択を考える人間にするのである。」と書籍で述べている。
彼の医学の道は、延命のためではなく「命の質の向上といかに生きるか」がテーマであり、
人々が肉体的に精神的に癒され、生き生きと生きるためへの挑戦だったのだと思う。
彼の生き方、発する言葉から愛が伝わってくる。
Nature(素の自分)11-2
とても感受性豊かで霊的感性がある人であったと思う。
患者とその家族との会話、哲学書、人とのかかわりの中から、何かを感じ取り考えて行動している。
「ターミナルの時にはやはり宗教を超えて魂の問題に入っていきます。
人間といのは、脳―体にあるマインドだけなくて、スピリット、霊というものがあるんだなと私は思っています。
人間は、からだとマインドとスピリットでできているのです。」と語っている。
理想向かうゆるぎない意志があり、やると決めた事は最後までやり通すことをビジョンに掲げていた。
Action(行動パターン)5
常に学び・知識を得て、得たものをアウトプットしている。
医学の未知の世界に新しい風を吹き込み、医学からみた命の在り方を書籍や教育という形で広く啓蒙し伝えてくれた。
穏やかで知的な話し方は、子どもから高齢者まで心を明るくした。
History
Cycle Number(環境や大きな流れ 向き合うテーマ)
Pinnacle Number(その時の状態やあり方)
Challenge Number(挑戦する課題やそうぐうするトラブル)
0~28才
キリスト教徒の両親の元で生まれる。
牧師である父は海外に留学し経験豊かであり、日野原氏の思想の深さは父の影響を受けていると思われる。
京都手国大学医学部に進学。卒業後は同医学部の内科へ(無給で勤務)
同大学医学部大学院博士課程進学
Cycle Number #1(種まき)
※学校生活で医学の知識を蓄える時期。
Pinnacle Number #5(変化・多才)
医学の勉強、卒業後は内科副手(無給)に就任。
その後循環器内科に入局し「音の研究」をしする。カメラを身体の中に入れ心臓の音を無知側から聴く研究をする。
卒業論文とする。
病気で休学中にピアノを教えてもらう。才能があると言われ音楽の道に進もう悩むが、
父が反対し断念する。内科一般をやることを決意する。
※将来について悩む時期であった。
Challenge Number #3(発展・成長)
医師として活躍してくための勉強をして、副手として研修を積み成長して、知識を発展させる。
29~46才
1941年#20 京都から出てきて、聖路加国際病院の内科医となる。
1942年#21 結婚
1951年#21 聖路加国際病院内科医長に就任
〃 エモリー大学医学部に留学。メイヨー・クリニック
でホリスティック医療に触れる。
1952年#22 聖路加国際病院院長補座(研究・教育担当)に就任
〃 母死去
Cycle Number #4(軌道修正・基盤づくり)
京都から周囲の反対を押し切り、東京の聖路加国際病院に勤めるが
死ぬまでこの病院に勤め、病院の発展・医学の発展に勤めた。
彼の人生の基盤づくりとなる。
Pinnacle Number
29~37才 #7(研究や学びの時期)
国際聖路加病院は戦後アメリカの軍病院となる。この時アメリカの医療雑誌や専門書を読み、
日本の医師に紹介する冊子を発行した。
38~46才 #3(発展)
アメリカへ留学して、アメリカ医学の教育システムと日本大学との違いを知る。
留学後帰国して、病院の研修システムを革新し、アメリカの制度を取り込もうと努力した。「留学中に得たものは本当にかった。
毎日毎日自分の身長が伸びるような思いだった。
会議にでたり、先生の回診についたり、そういうことで自分が豊かになるのが身に感じられた」と当時を振り返っている。
Challenge Number
29~37才 #1(構想を練る)
アメリカ医学の知識を紹介できるようこ構想をねる。
38~46才 #2(受容・結合)
アメリカ留学で得たアメリカ医学を伝えながら、日本の医学とのバランスを考えて
ゆっくり時間をかけて医療を変えていく。
47才~
1958年#19父死去
1973年#25(財)ライフプランニングセンター設立・理事長に就任
1974年#26聖路加国際病院を退職
〃 聖路加看護大学学長に就任
聖路加看護大学に大学院を開設、日本ではじめて看護大学に博士課程を設置
1992年#8聖路加国際病院の院長に就任
1996年#3同病院院長退任、名誉院長となる。
2000年#7ライフプランニングセンターに「新老人の会」設立
2010年#8「葉っぱのフレディ」をブロードウェイで上演。カーテンコールで舞台に立って踊る
2017年#14 105才で死去
Cycle Number #3(創造・発展)
38~46歳 でやってきた#2(受容・結合)をさらに創造・発展させる。
この時期は今まで築き上げてきたものが型になってきて、
日野原氏が本当に求めている方向に発展できるよう動けるようになってきた時期。
Pinnacle Number #4(安定・収穫)
独立型ホスピスセンターを設立し、命の大切さを伝えるためお芝居の脚本づくりに携わり上演するなど
今まで創り上げてきたものが形作られている時期。
Challenge Number #2(受容)
今までの努力してきた経験・功績を活かし、未来の平和の為に安らぎを与える活動を死ぬ間際まで続けた。
Year Cycle
生まれた時から74才まで二桁の高い数字が続く。
戦争やハイジャック事件など大変な時代を生き抜いてきたことがうかがえる。
いつも患者側に立った新しい医療の改革をしていく志材を持った日野原氏にとっては、
古い日本の風習がある医学会に認められるには、大変な苦労があったことだろう。
75才で数は一桁になる。(2)
このころ(1990年)頃の手記には「これから許される私の生涯は、与えられた人生として、
ホスピスでの有終のケアの実践携わり、その中に英国やカナダや合衆国のホスピスで認められている音楽療法をも取り入れ、
心を込めた細やかなケア(tender loving care)を、死を迎える人たちに提供したいと思います。
ボランティアや宗教の方々とも一緒になって、最後のケアをやっていきたいと思います。」と書いてある。
肩の力が抜けて、ほっとした気持ちで仕事に取り組んでいたと思われる。
亡くなった時のYearCycleは#14。苦しい時、嬉しい時、自分のすべきことを精一杯貫きやってきたからこそ、
自由の意味をしりこの世を去ったではないかと思う。
Type ll
Creation , Growth Maturity Lead Bodyすべてが#3である。
人に何かを伝えていく/自己の感情を感受性を淘汰し、表現を行い、人を喚起する/
感情にまつわる集合意識のキャッチ/創造エネルギーで他者に愛と霊感(ヒント)を与える/
相手の波動を感じ取りそれに対して適切な処置を施す
まさにその通りの人である。
終わりに
日野原氏が精力的に活動できるのはなぜか?
それは、自分のためでなく人の為に何ができるのかが軸にあるからなのだと思った。
そしてその人のためとは、命を大切にして、命を愛することでその人らしく人生を全うするために
何をしてあげられるかということである。
そばにいて手を手を握ってあげるだけでも、ただ話をきいてあげるだけも、何か人のためにできることである。
難しいことではないが、なかなかできない。
日々を流れるままに過ごしてしまう毎日だが、レポートを作成し、人として大切な生き方を教えてもらった。
終えてみて心が温かくなったのを感じている。
Aeons Numerology Basic the 13th class in Meguro class
Kuniko


