
セーレン・オービエ・キルケゴール
(Søren Aabye Kierkegaard)
1813年5月5日~1855年11月11日
デンマーク・コペンハーゲン生まれ
19世紀デンマークの哲学者、詩人、思想家で、実存主義の創始者、先駆けと言われています。
近代の合理主義的思想が行き詰まり、新しい現代思想の模索が始まった危機の時代を、その著作を通して表現した人物です。
キルケゴールは「自分がそのために生き、そのために死ぬことをができるような真実」を求めて、自己と戦い、社会と戦い、そして現代実存主義の創始者と仰がれるような優れた思想を遺しました。
また、当時影響力の強かったヘーゲル学派哲学、そして当時のデンマーク国教会に対する痛烈な批判者でもありました。
多くの思想家がそうであったようにキルケゴールもまた、その当時の人々からはほとんど正当な評価を受けることはありませんでした。
実存主義:
人間の実存を中心とする思想。合理主義、実証主義による客観的ないし観念的人間把握、近代科学技術による人間の自己喪失などを批判し、20世紀、特に第二次大戦後、文学・芸術を含む思想運動として盛り上がった。実存哲学。
『大辞林』
アルファベットにはない「ø」に対応する数字は「1」で計算。
http://www.asiact.org/archive/numerology/6names.asp 参照
鋭い知性と革新、そして自由 ─ 誕生数:5
キルケゴールは、ヘーゲル学派の哲学、形式主義のデンマーク国教会の痛烈な批判者であり、実存主義の先駆け、創始者とされた哲学者、思想家であり、詩人でもあり、10余年の間に多くの著作を書き上げました。
鋭い知性と感受性、マルチな才能、純粋な探求心を持ち合わせ、理論的でありまた分析力にも優れ、そして激しい情熱を持って行動したキルケゴールは、誕生数5の持つ長所を体現したような人生だったと言えます。
また5は「自分の宇宙をつくる」という意味を持つナンバーでもあります。キルケゴールは、抽象的な哲学ではなく、個別の、具体的な人間を哲学の対象とし、自分自身の問題として探求する主体的な思想家でした。近代社会の中で個性を失い神を見失った人々が虚無(ニヒル)の絶望の中に終わっていくことを指摘しつつ、人々の魂の内面に真の宗教性を持つことを願って活動しました。
一方で、キルケゴールは「神経質で批判的」という誕生数5の持つ短所、逆数である誕生数4の短所である「孤独で悲観的」という面も持ち合わせていました。
─ カルミックナンバー14
キルケゴールの誕生数5にはカルミックナンバーの14が含まれています。14は「真の自由への学び」のナンバーです。キルケゴールは、人々のそれぞれの本当の魂の自由を願い、自分自身の真実を持って人生を生きるための自己の真理の探求、個性と自由…人間としての真の幸福を求めること、それらをテーマとした著作として後世に残しました。まさに「真の自由とは何か」を探求した人生でした。
独創的な思想、実存主義の創始者 ─ 運命数:1
独創的で斬新、そして150年以上の時を経ても色褪せないの思想をもって、キルケゴールは実存主義の創始者と呼ばれますが、あらゆる分野において創始者となる人のナンバーである運命数1を持っています。そして彼の思想は後の哲学者、思想家たちにも多くの影響を与えました。
─ カルミックナンバー10
キルケゴールの運命数1にはカルミックナンバーの10が含まれています。カルミックナンバー10を持つ人は、「生まれには恵まれるが後に突然大きな変化が起こる」「前世のカルマを果たす」「人道的な目的を持つ、人に癒しを与える」と言われます。
キルケゴールの人生は、彼の父から大きな影響を受けています。キルケゴールの持つカルマとは、父のカルマであったと言えるかもしれません。キルケゴール自身は裕福な商人の家に生まれますが、後に彼が著作の中で「大地震」と呼ぶ、自分の出生と父の罪を知ることによって、心を打ち砕かれます。
裕福な毛織商人で熱心なクリスチャンであった父は、かつてユトランド半島に住む貧しい農民でした。父は子供の頃にその境遇をただ一度神に呪ったことと、結婚して間もない妻が肺炎で亡くなった直後、喪が明けぬうちに女中であったアンネ(キルケゴール兄弟の母)に対し暴力的に関係を持ったことを「罪」と考え、その代償としての「罰」がコペンハーゲンでビジネスに成功したことと、また自分の子供たちがキリストが張りつけにされた34歳までしか生きられないことと信じ込んでいました。(実際に7人兄弟のうち長兄のペーターと末っ子のキルケゴール以外は若くして34歳までに亡くなっています。)父の苦悩は後に息子の苦悩ともなり、キルケゴールの思想と生涯に決定的な影響を与えることとなりました。
波乱と苦悩に満ちた人生を歩んだキルケゴール自身の魂が救われたかどうかはわかりませんが、その著作と活動を通して多くの人々の心を救うことにより、カルマを果たし、人々に癒しを与えたといえるかもしれません。
Kierkegaardとはデンマーク語で「墓場、教会の庭、敷地」を意味する。実際にキルケゴールの父の家族は教会の敷地内に住んでいた。
キルケゴール自身も、幼い頃から身体が弱かったので、34歳までに自分が死ぬと信じていた。そして34歳になっても自分が死ななかったため出生届を確認したほどであった。
知的探求心 ─ ソウル数:7
キルケゴールは、分析、探求を楽しむ、多面的な思想家でした。7はより深い知的探求を現すナンバーです。
多数あるキルケゴールの著作については、多くのものがペンネームで書かれ、出版されています。著作の内容に応じてペンネームを変えたり、出版者(キルケゴール)が未知の筆者(キルケゴール)の原稿を見つけるという手法を取ったり、また、あるペンネームの自分の作品について別のペンネームでコメントすることもありました。
このように複雑な形式を用いたキルケゴールは、探求を楽しむだけでなく、自身の著作について妥協することもありませんでした。
また、ソウル数7の魂の目的は、「会得したものを世の中に広め、人々の心を豊かにすること」であるとされています。キルケゴール自身は生きている間に正当な評価を受けられずにいましたが、キルケゴールの死後、彼の思想は世の中に広がっていきました。そして後の哲学者や思想家たちに影響を与えただけではなく、多くの悩める人々の心を救うような著作を遺したことで、人々の心を豊かにしたといえるでしょう。
キルケゴールの別の顔 ─ 人格数:3
キルケゴールは自身のことを「私は生まれたときから老人であった」と嘆いたように、また著作にも表れているように、信仰心の厚い父親譲りの憂愁に満ちた性質の持ち主でした。しかしその反面、母親譲りの陽気さも持ち合わせていました。
外見的印象を現す人格数3を持つ人は、愛想がよく、チャーミングで、ユーモアのある遊び人風で、人を惹きつける人と言われます。
波乱と苦悩に満ちた人生だったにもかかわらず、キルケゴールは穏やかな日常生活を送っていました。午後になると決まって街に散歩に出かけ、街の人々と愛想よく言葉を交わし、カフェや劇場で過ごすことを楽しむような人物でした。
少年時代も、やさしく、いつもユーモラスで友達に愛されていたと言われています。そして大学に提出した人物証明書には「愛すべく好ましい若者」と書かれていました。
キルケゴールは機知に富んでいて話し上手であったので、友人たちからもてはやされていました。また生涯の恋人レギーネと初めて出会ったパーティーでも、キルケゴールは詩人としての才能と会話の妙で、レギーネら若い娘達を魅了しました。後に恋のライバルから彼女を奪おうと決意したとき、キルケゴールはレギーネの愛を得るために、持ち前の社交的な才能を駆使して、彼女と彼女の父の心をたちまちとらえて、あっという間に結婚を申し込み、数日後には承諾の返事をもらうほどでした。
また「大地震」後(前という説もある)は、内面では自殺を考えるほど絶望でいっぱいだったのに、外面的には華やかに遊び回っていて、莫大な借金を作るような生活を送っていました。
キルケゴールは、常に内面に苦悩を抱えていましたが、外面的には明るく快活な振る舞いで他人を喜ばせるような人物だったようです。
キルケゴールの人生 ─ 少年時代
若年期:5
キルケゴールは病弱で貧弱な子供で、それは生涯を通じても悩みの種となりました。彼はそのことについて「私の霊魂と肉体の不均衡」といっていますが、それは少年時代のキルケゴールにとって、精神上の才能を伸ばす点ではプラスであったといえるかもしれません。彼自身、幼い頃から自分が機敏であることを自覚していました。
キルケゴールの父は子供たちに、特に末っ子のキルケゴールに宗教的な敬虔さを大切に考える生活を厳しく求め、またキルケゴールも父の期待に応える努力をしてきました。
しかし、ただ沈鬱な父子の関係だったわけではなく、宗教的な関心だけではなく哲学にも深い関心を持っていた父が友人たちを招いて哲学についてよく論じ合っていたのを、そばで聞いているのが好きな少年でもありました。キルケゴールは父の弁証の才、対話の仕方から多くを学びました。
また父は外で遊ぶことを許しませんでしたが、家の中を歩きながらまるで街や森を見ているかの様に語り、子供たちを幻想の世界に連れて行きました。キルケゴールはこうした想像の楽しさを知ったので、宗教的で敬虔な生活の中においても、知的好奇心を十分に満たす子供時代を過ごしていたようです。
5は「好奇心」や「鋭い知性」の意味を持つナンバーですが、このような少年時代に素晴らしく多彩な才能を培っていったのだと思われます。
そして、キルケゴールは父の期待に応えるために神学部に進みます。
キルケゴールの人生 ─ 苦悩のはじまり
1830年(17歳):4 / 13
この年キルケゴールは、コペンハーゲン大学神学部に入学します。また、親衛隊に入隊するも身体が弱く除隊となります。
4はものごとが始まる年のナンバーで、新たなスタートとして大学に入学しますが、親衛隊を除隊になるという挫折も味わいます。キルケゴールにとっては波乱に富んだ精神的苦悩を味わう時期の始まりの年であったといえるかもしれません。
イヤーナンバーは2桁の数字を1桁になるまで計算している。/の後ろの数字は元の2桁の数字。
1834年(21歳):8 / 17
キルケゴールはこの年から日記をつけ始めます。(しかし最初の数年は神学のことについてほんの少し書いているだけであった)また、彼の興味はこの頃から神学よりも、文学や哲学など自由な教養を求めだします。多面的な興味に目覚めたキルケゴールは、学生達の討論クラブやカフェ、劇場に出入りするようになり、遊び歩く生活を始めました。そして晩年キルケゴールが戦う相手となるマルテンセン(後にデンマーク国教会の監督となる人物)と大学で出会います。
マルテンセンはキルケゴールのことを「非凡な才能をもつが詭弁的」、またキルケゴールはマルテンセンのことを「どんな主題に対しても底に達しない、生温い人物」とお互いを表していました。このころチューター(学生指導教官)と学生という関係であったふたりですが、権威主義であるマルテンセンと反権威主義であるキルケゴールは出会った時から反目しあっていました。
8は心にスピリチュアリティを持つ、そして力を多角的に放出するという意味を持つナンバーです。
この頃、キルケゴールは神学を学ぶことだけでは満たされない何かに気づき、真理と自由を探求することに目覚めたのかもしれません。そして多方面に広がる好奇心と一見遊んでいるだけの日々は、後の真理への到達への準備だったのかもしれません。
また8は死を現すナンバーでもありますが、この年に母アンネが亡くなっています。
キルケゴールは、大学で最良のチューターであると評判の高かった兄のペータではなく、マルテンセンを選んだ。
キルケゴールの人生 ─ 「大地震」とキルケゴールの苦悩
「そのとき大地震が、恐るべき変革が起こって、突然私は、あらゆる現象を全く新しい法則に従って解釈しなければならなくされた。」
この時期のキルケゴールは自身の著作の中で「大地震」と呼ぶ出来事が起こり、また自堕落な放蕩生活を送っていました。その中でキルケゴールは彼にとって核心となる思想にたどり着きます。
1835年(22歳):9 / 18
キルケゴールは色々なことがらへの関心と自由な生活への憧れから、しだいに神学から離れていき、文学、哲学の方向へ進みだします。そのようなキルケゴールの変化は家族との関係を悪化させていく原因ともなりました。真面目な神学者として精進を重ねていく長兄ペーターは、神学から離れていくキルケゴールを心配しつつも、自身よりも父の愛と期待を多く受けている弟に対して不満を感じていました。また父は1832年から1834年にかけて、妻と3人の子供が次々に亡くなっていく悲しみと、神学から離れいくキルケゴールと、兄弟の不仲とによって深い憂愁にとらわれていました。このような重苦しい空気を和らげる存在であった母が亡くなり、比較的安らかであったキルケゴールの家庭生活は暗く重いものに一変しました。そして父や兄からの精神的独立を求める内面的葛藤に苦しみます。その苦悩が激しければ激しいほど、キルケゴールは外面的には華やかな社交生活に足を向けていきました。
そのような状況の中、キルケゴールはこの年の6月から8月に北シェランに旅行に行きます。この旅行は、家庭内の重苦しい空気を忘れさせ、大学卒業の神学試験に備えさせるために、父が提案したものでした。
この旅行中にキルケゴールは、「客観的な真理に何の意味があるのか?自分にとっての真理を発見し、それのために生き、死ぬことを願うような生活根拠(理想)を発見することが必要である。」と、後の彼の思想の核心となるような思想に到達します。主体的真理を求めて生きようとする確固たる決意に到達したキルケゴールは、父からの精神的独立を目指し、彼と戦う覚悟をもって家に戻ります。
9は「完結」「変容」「本質を見抜く」「真理を得る」ことを現すナンバーです。まさに真理への糸口を得たキルケゴールでしたが、9には「複雑な2面性」という意味も持ちます。
戦う覚悟をもって家に戻ったキルケゴールでしたが、しかし憂鬱に沈みこんだ父を見て、戦う決意を示す気力を失ってしまいます。
キルケゴールにとって真理を見出した年でもありましたが、9の短所である「ブレやすさ」が現れた年でもあって、彼はこの後「破滅への道」と名付けた放蕩生活に落ちていきます。
また、「大地震」については諸説ありますが、一説ではこの年に父の罪と罰を知り、それが放蕩生活の原因であるとされています。
尊敬し、愛していた父が罪人であること、そしてその罪を自分自身も受け継いでいることにキルケゴールは苦悩します。父は「子供だけは本当の信仰の祝福を得てほしい」という願いから、敬虔なキリスト教徒としての生活を求めましたが、キルケゴールは父が押し付けるキリスト教をもう単純に信じられなくなっていました。この時キリスト教は、キルケゴールにとって愛と救いの宗教ではなく、父同様に苦悩と刑罰の宗教となりました。
「大地震」についてはキルケゴール自身による具体的な記述がないため、詳細については不明であるが、自身の出生と父の罪のことだとされている。また時期についても不明。そのため1835年の「大地震」をきっかけに堕落した生活に落ちていったという説と、1838年の「大地震」をきっかけに堕落した生活から立ち直ったという説がある。いずれにしてもキルケゴールにとって苦悩の時期であったことに違いない。
ここでは「大地震」が先に起こったと仮定してリーディングしている。
1836年(23歳):1 / 19 、1837年(24歳):2 / 20
キルケゴールは神学試験の準備を放棄し、自らが「破滅への道」と名付けた、内面には死への不安と罪の絶望を抱えながら、外面的には様々な友人たちと飲み歩き莫大な借金を作るという放蕩生活を送っていました。華やかで多彩な社交生活は多くの人生経験を得る機会でもありましたが、キルケゴールの心を癒すものではありませんでした。このような華やかな生活の奥底にキルケゴールが見ていたものは、退屈で無意義な人生であり、虚無でした。そしてこの頃、キルケゴールは自殺することが最大の救いであるとまで考えていました。
華やかだけれども虚しく絶望的な日々を送る中で、1837年にキルケゴールは生涯の恋人となるレギーネ・オルセンと出会いました。しかしこの時はタイミングが合わず、また彼女には他に結婚を前提とした相手がいました。
この自堕落な放蕩生活は1のナンバーが持つ短所「不安症」「悪癖」、2のナンバーが持つ短所「過敏」「流される」「依存」など、悪い面が極端に出た時期だったようです。
1838年(25歳):3 / 21
1838年に入るとキルケゴールの日記の記述には、回復の兆しが見え始めます。恩師であるポール・マルティン・メーラーの助言により、キルケゴールは徐々に立ち直っていったとされています。3月にメーラーは亡くなりますが、死の床からも気遣ってくれたことの感謝の念を込めて、後にキルケゴールはこの時期の自分を分析した著書『不安の概念』をメーラーに捧げました。キルケゴールはキリスト教に、そして父の元に帰ることを願いました。
こうしてついにキルケゴールは父との和解を果たし、その後8月に父は亡くなります。
そしてキルケゴールは父との約束を果たすため、神学試験の準備に入ります。彼にとって神学の試験勉強は最大の苦痛であったと思われますが、父への愛によってそれを乗り越えたと言われています。
3は「新しい誕生」そして「さらに発展していく」という意味を持つナンバーですが、キルケゴールは、苦悩の日々を乗り越え、父と和解することによって大きく成長しました。
メーラはコペンハーゲン大学の教授で、詩人であり思想家。
キルケゴールの人生 ─ レギーネへの愛
1840年(27歳):5 / 14
この年キルケゴールは、神学試験に優等で合格し、王立伝導学校へ入学します。キルケゴールは試験が終わるとすぐに、父への愛とレギーネへの想いを胸に、父の故郷であるユトランドへ旅行に出かけます。
そしてこの旅行から帰ったキルケゴールは、積極的にレギーネに接近し、彼女の愛を得ようと決意します。キルケゴールは8月頃からオルセン家の客として出入りするようになりますが、9月に結婚を申し込み、数日後には婚約の返事をもらいます。
5は環境が変動し、かたちになったものが活発化していくことを現す数字ですが、伝導学校への進学という環境の変化と、長年想い続けてきたレギーネへの愛が成就した年でした。
しかし、念願かなってレギーネと婚約をはたしたキルケゴールですが、外面的には彼女の愛を得たことを喜んでいたものの、内面では婚約した直後から、自分はレギーネにふさわしくないと思い悩み、婚約を後悔していました。
5は「破壊」を現すナンバーでもあり、幸せを手にしたはずのキルケゴールですが、その憂愁な性格から、幸せとは逆の方向に向かって進んでいきます。
1841年(28歳):6 / 15
6は「出会いと別れ」のナンバーですが、キルケゴールはとうとうレギーネに指輪を送り返して婚約を解消します。キルケゴールは彼女を愛すれば愛するほど、自分は彼女にふさわしくない人間であり、彼女をどんなに深く愛していても神の愛を信じていない自分は彼女と真に愛し合えないと考え、そのことにより彼女を傷つけないために、別れを選びます。6は無条件の愛を現すナンバーでもありますが、キルケゴールは一方的でかなり屈折したかたちではありますが、無条件の愛の証として別れを選び、レギーネへの愛を貫くことを決心しました。
1841年は論文が学位として認められたり、ベルリンに旅行(ベルリン大学でシェリングの講義を聴く)したりした年。著作活動に精力的に取り組んでいた。ちなみにベルリン旅行は1年半の予定だったが4ヶ月で引きあげてきた。
1843年(30歳):8 / 17 、1844年(31歳):9 / 18
キルケゴールは神への愛に目覚めレギーネへの愛を完成させるべく、著作活動に没頭します。『あれかーこれか』『反復』『哲学的断片』などの名作を次々に著作し、それらを「ただ一人の読者」レギーネに捧げます。キルケゴールはレギーネがこれらの著作を通して、婚約破棄のの真意、彼女への愛の深さを理解してくれることを願っていました。
後に彼は日記に「私の死後、著作は彼女と亡き父捧げられるべきだという私の意志は変わらない。」と記しています。
9は「完成」の意味を持つナンバーですが、キルケゴールはその苦悩や愛を珠玉の著作に昇華させ、永遠に遺すこととなります。
その後もキルケゴールは、レギーネを愛し続け、生涯その愛を貫き通しました。
そして遺言には「私の以前の婚約者であったレギーネが、私の遺しうるわずかなものの全てを相続することは、もとより私の意志である。」と書き遺しました。
レギーネは遺産の相続については断ったが、遺稿の引き取りには応じた。そして親友であったキルケゴールの姪とともにこれらを世に送り出した。
キルケゴールの人生 ─ 戦いのはじまり
1845年(32歳):1 / 19
キルケゴールはこれまでの数年の間に多くの著作を書き下ろしました。そして当時のコペンハーゲンにおける優れた文学者、思想家として名声に輝いていたキルケゴールは、すでにこれまでの著作で自身の書きたいことはあますことなく書きつくしてきたと感じていたので、そのとき書き進めていた『哲学的断片のあとがき』でヘーゲル批判を書き上げれば、もう後は書くべきことは何もないと考えていました。そしてこれを出版した後は筆を置き、田舎の教会で残りわずかの人生(34歳で死ぬと信じていたので)を、神に仕えるクリスチャンとして静かに過ごすつもりでいました。
しかしこの年、キルケゴールに対する悪意に満ちた批判文が雑誌にされたことが口火となり、有力な風刺新聞「コルサール」にキルケゴールを嘲笑する漫画と彼を罵る記事が数ヶ月に渡り連載され、そしてキルケゴールは人々の物笑いの種に仕立て上げられてしまいます。
このような卑劣なマスコミの暴力にあったキルケゴールですが、このとき誰も彼を助けようとしませんでした。
この「コルサール事件」でマスコミと大衆の虚偽と無責任さを痛感したキルケゴールの闘争の対象は、これまでの美的、感性的、思弁的なものから、大衆社会(後に宗教的なもの)へと転じ、著作者としての新しい使命に生きることを決意します。
1は「始まり」「新生」の意味を持つナンバーですが、キルケゴールは著作者としてまた新たなスタートを切ることとなります。
この時代のデンマークは、デンマーク文化の黄金時代であり、アンデルセンをはじめ、多くの優れた作家が誕生した時代であった。多くの学術団体や文化クラブが設立され、また言論機関の発達も著しく、新聞や雑誌も無数に発行された。
1847年(34歳):3 / 21 、1848年(35歳):4 / 22 、1849年(36歳):5 / 23
3は「発展」「開花」の意味を持つナンバーですが、この年、キルケゴールは自分が死ぬと思っていた34歳になります。これから先は予期していなかった恵みの年月であるので、これを神に捧げて生きようと考えました。
しかし34歳で死ぬと信じていたキルケゴールは、父の遺産の多くをこれまでの著作の自費出版のために使ってしまっていました。そして経済的困窮に常に頭を悩ますこととなり、決意とは裏腹に活動面では発展の年とはなりませんでした。
イヤーナンバー4の年であった1848年は、ヨーロッパ各地で起こった政治的動乱によりインフレが起こり、また兄の借金返済のために、キルケゴールは屋敷や著作の版権を売ってほとんどの財産を失ってしまいました。世の中の大きな変化と経済的困窮の中、キルケゴールは著作活動に膨大なエネルギーを傾け、宗教的著作『死に至る病』など3作を書き上げます。
その一方で、経済的安定を求め官職につく希望を捨てきれなかったキルケゴールは、デンマーク国教会の怒りを買うことを恐れ、これらを出版する決断ができませんでした。
4の年はそれまでの数年の結果が出る年、そして次のものごとの準備を始める年ですが、困難な状況に置かれているために、後に名著と呼ばれる著作の出版を見送りました。結果が出た年とは言えませんが、今後の活動のための準備の年となりました。
イヤーナンバー5の年であった1849年は、「変化」と「葛藤」の年でした。キルケゴールはこの年に『死に至る病』を出版しますが、生活への不安から行動に起こせない自分の弱さに苦悩しました。
デンマークでは1660年より200年近く維持されてきた絶対王政が崩壊し、1848年に自由憲法が制定された。
キルケゴールの人生 ─ 殉教者として
「信仰とは、自己が自己自身であり、また自己自身であろうと欲するにあたって、神のうちに透明な基礎をおいている、ということである。」
キルケゴールにとって究極的な真理とは、キリスト教的真理であり、「自己が真の自己となる」とは、彼にとっては「自己が真のクリスチャンとなる」ということと同義でした。キルケゴールは、真のクリスチャンになるためには「キリスト教が何であるか」を形式的に客観的に理解することではなく「いかにしてクリスチャンになるか」を、自分自身の生き方に即して主体的に問い、そして実際にクリスチャンとして生きることに目覚めなければならないと考えました。
1853年(40歳):9 / 18
1852年までのキルケゴールの日記には、自己の内面の信仰を貫くために、無責任で実体のない「大衆社会」や形式的で堕落した国教会と戦おうと決意するものの、生活の不安から行動することができず、殉教者としての使命を感じながらも殉教者となれない自己の弱さを苦悩する記述がみられます。
しかし1853年から、自分の使命が国教会と戦うことであると確信を強めていきます。
この頃の日記には「私は著作者として私の良心に、あることを持っている。私が言わなければならないことがはっきりとある。そして私はそれを言わずには死ぬにも死ねないほどに、そのことを自分の良心にかけて持っているのだ。私が死んでこの世を去る瞬間に、そしてこことは違う場所に立っているこの瞬間に、次の質問が私に課せられるだろう。『お前は使命を全く明確に行ったか?』そしてもし私がそれをやっていなかったら。そのときはどうなるだろうか!」と書かれています。
9は「完結」「完成」「真理」の意味を持つナンバーですが、これまでの葛藤の日々を乗り越え自分の使命を確信し、重大な決断をした年となりました。
当時のデンマーク国教会は国家と表裏一体で、絶大な権力を持っていた。
1854年(41歳):1 / 19
キルケゴールがこれまで国教会批判を躊躇していた理由のひとつとして、国教会の監督にミュンスターが在位していたことがあります。ミュンスター監督はキルケゴールの父が尊敬した父の導師であり、自身も彼から堅信礼を受けたので、さすがにキルケゴールはミュンスター監督を直接批判することができませんでした。しかしこの年の1月、ミュンスター監督が亡くなり、その後任として4月にマルテンセンが監督に就任しました。これを機にキルケゴールは行動を開始します。2月にマルテンセンがミュンスターの追悼演説を行いますが、その演説内容に対する反論文を書き上げます。
しかし書き上げたもののこの論文が個人攻撃の中傷記事だと誤解されることを恐れたキルケゴールは、マルテンセンが監督に正式に就任するのを待ち、また、ミュンスター前監督追悼のための一般寄付が完了するのを配慮して、そして10ヶ月延期の末、12月に日刊新聞『祖国』紙上で発表しました。こうしてキルケゴールの国教会批判、マルテンセンとの論戦が開始されました。
1は「決断」「はじまり」の意味を持つナンバーですが、真理のために戦う最後の決断をし、そして戦いを始める年となりました。
1855年(42歳):2 / 20
1854年12月から1855年2月までに、日刊新聞『祖国』に20本の論文を掲載し、マルテンセンと国教会を糾弾し続けます。
そして5月からは予約販売の小冊子『瞬間』を自ら発行して、毎号7、8本の短めの論文を掲載します。『瞬間』は2週間ごとに出版されましたが、発行部数が『祖国」を超えるようになりました。
敬虔で誠実なクリスチャンとして知られていたキルケゴールのこれらの行動は、多くの人々に狂気の沙汰だと思われていました。しかし一方でこの小冊子『瞬間』への反響は大きく、国教会反対派、自由思想家たちに迎え入れられただけではなく、教会内部の人々や牧師たちにも歓迎されました。『瞬間』は、様々な人に大きな影響を与え、それぞれに行動を促しました。ある人々は自身が教会人でなかったことを知り、ある人々は一層よいプロテスタントになるように鼓舞され、ある人々はカトリックの方向へ向かうなど、キルケゴールの目指していた「単独者」としてのそれぞれの幸せの探求へと向かっていきました。
キルケゴールは『瞬間』第10号の印刷準備中に意識を失い倒れます。その後10月2日に再び散歩中に意識を失い路上に倒れ、そして40日後の11月11日にこの世を去りました。
この年のイヤーナンバーは2で、「芽吹き」「新しい世界が生まれる」の意味を持つナンバーです。
道半ばで孤独に亡くなったキルケゴールですが、彼の求め続けた真理は彼の著作を通じて、人々を目覚めさせ、それぞれの真理の探求へと誘いました。
キルケゴールの誕生数5は、「家族」を現すナンバーでもあります。彼ほど家族、特に父の決定的に影響を受けた思想家は少ないであろうと言われますが、キルケゴールの類い稀な才能を育んだのも家族であり、彼を苦悩させたのも家族であり、彼が深く愛したのも家族でした。キルケゴールの人生、そして彼の根底には常に「家族」がありました。
また、キルケゴールの、人生での可能性や実現することを示す実現数は6で、「本質の理解」や「精神性の向上のために真の救済を行う」という意味を持つナンバーです。活躍の場を示すステージ数は運命数と同じカルミックナンバー10を含む1で、「独創性」「創始者」「絶対性」「芸術」の意味を持ち、そして試練を示す挑戦数は2で、調和をはかることが求められるナンバーです。
美しい文体で鮮やかに真理を著わしたキルケゴールの人生を読み解いていくと、コアナンバーをはじめ、彼は自身が授かったナンバーを体現するような人生を歩み、天命を全うしたように思えます。
キルケゴールは150年以上も前に、人々が合理的な社会の中で個性を失い孤独と不安で絶望していくという現代社会にも通ずる問題を鋭く見抜き、警鐘を鳴らしました。そしてその苦悩を乗り越える術を、自分の体験を元としてのみ語りました。
私たちはそれぞれ個々が1つの自由な独立した人格であり、そして真理はそれぞれ個々の内側にある ─ キルケゴールの遺した思想は、世紀を超えてもなお色褪せずにいます。
参考文献:『キルケゴール』工藤綏夫(清水書院)
Reported by Yuri.M
Aeons Numerology 5th class
March 5th 2015