北朝鮮拉致被害者
横田めぐみさんの父親 滋さんが
亡くなった
柔和で 優しい雰囲気の
滋さんと
凛とした佇まいの
早紀江さん
このご夫婦を
テレビなどで拝見する度に
どんな夫婦よりも
強い絆で 結ばれているんだろうな
と 感じていた
そんなおふたり だからこそ
希望の光が
突然 霞んだり
消えかかったりする中でも
長きに渡り 拉致被害者の会を
引っ張ってこられたのだろう
でも
失礼ながら
私には 横田滋さんに
彼らの行っている活動とは
全然 別のところで
抱く思いが あった
あれは
めぐみさんが 拉致されたことが
わかって
拉致被害者の家族会が
発足した当初だった と思う
あるニュース番組で
滋さんが
宝もの として
めぐみさんから
お誕生日に プレゼントされた
という櫛を
本当に 慈しむような表情で
紹介されていた
そのニュースを見た時
心臓を掴まれたような気持ちに
なった
遠い昔
父に
めぐみさんと同じように
プレゼントを渡した時の 出来事が
フラッシュバックしてきたから
中学生だった私は 父の誕生日に
僅かなお小遣いを 貯めて
ネクタイを買い
喜んでくれるかな と
ドキドキしながら 渡した
その時
父の口から 出た言葉は
プレゼント っていったって
所詮 そのお金の出どころは
私だろ
子どもだった私は
その言葉に ひどく傷ついて
ひとり 部屋で泣いた
そんな経験が あったので
滋さんの
宝ものの櫛の エピソードと
それを 愛おしそうに話されていた
様子を 見て
以来
私は 既に
二人の小学生の 母親だったけど
彼に 勝手に
幼い頃からずっと 望んで 望んで
それでも 手に入らなかった
「やさしい おとうさん」
の イメージを
重ねるようになった
私の父は
家長として
家族の生活は 責任を持って
支えてくれたけれど
周りから
自分のテリトリーや
時間を侵されることを
ひどく 嫌うひとだった
すべての時間を 自分の思う通りに
勉強したり 文章を書いたり
哲学したり 運動したり
起床も 就寝も
機械のように 正確で
一分 一秒を
決して無駄にしない人だった
そんな父を
反面教師として 育ち
父とは 全く相容れなかった
私は
家を出て
当時 ナンパな職業の極致だった
マンガ家になった
父と私の道は
生涯 交わることは なかった
マンガ家になりたての 頃
私は 交通事故にあった
大通りを
青信号で渡っていた 時
スピードを出して 左折してきた
バイクに
跳ねられたのだった
その時
母は ちょうど 旅行中で
病院からの電話は
家にいた父が 取った
病院に来た 父は
ベッドに横たわる私に向かって
開口一番 言った
いつもいつも
親の足を 引っ張りやがって
ああ 父親らしい
と 思った
それから 3ヶ月ほど
入院したけど
父は
もちろん その日以降
病院に 私を見舞うことは
なかった
拉致被害者家族会の活動を
ニュースで観る度に
いつも
頭をよぎる ある思いが ある
もし 私が
ある日突然 いなくなっても
父だったら
自分の半生を 賭して
探し続けてなんか くれないだろう
もちろん それは
あくまでも 私の想像で
死人に 口無し
実際のところは わからない
でも
そうとしか 思えない
それ以外の可能性を 想像できない
自分が
悲しい
でも
滋さんのように
子どもを大切にする親が存在する
一方で
テレビでは
我が子を虐待する親のニュースも
日々 流れている
世の中には
どちらの親も いる
多分 大多数の親は
子どもに 深い愛情を抱きつつも
時に
日々のストレスのはけ口に
子どもに 八つ当たりしたり
怒鳴ったり
時に
世間体や
自分の立場を守るために
子どもをバカにしたり
押さえつけたりしながら
子育てをしているんだろう
子どもを
傷つけたことがない 親なんて
いないはず
大正末年生まれの 私の父は
貧しい家の 長男に生まれた
周りからは 立身出世を期待され
本人も それに応えるべく 努力し
世間的に
そこそこ評価される人生に なった
戦後復興の中で
日本全体が がむしゃらに働いた
時代
そんな中で ステップアップすることに
汲々として
切り捨ててきたものも
たくさんあったのだ と 思う
例えば
弱いものへの配慮や 思いやり
日々の暮らしの中に ある
小さな幸せを 感じる心
私は
この年令になって ようやく
父を ひとりの人間として
ほんの 少しだけ
俯瞰することができるように
なってきた気が する
その 俯瞰した目で見てみると
ほんの 少しだけ
鋭利な ナイフのような言葉を
娘に向けた 父の気持ちが
わかる気が する
それでも
めぐみさんに対する
深い愛情を
言葉と行動で 表現し続けてこられた
「やさしい おとうさん」
滋さんの訃報は
私にとって 辛いものだった
ご冥福を
心より お祈りいたします
