自分の思い込みをみつめる
この作業に意識を持つと
不思議なくらいに苦しみを受けとめられる自分が居ます。
むしろ
「この気持ちはどこからくるの?」
興味さえ湧いてくるようになりました。
ここで、ワタシはある方に
カウンセリングをお願いしました。
誰に話しを聴いてもらうかは
自分が他者に向ける信頼を向けれるかどうか・・・
これがカギを握ります。
今までみたいに他者を信頼できずに
任せてしまうと、その方を嫌いになり
相談した自分までもが嫌いになってしまいます。
ここ数年のやり取りで
そうした不安が一蹴できる
そんな交流が持てていることを
再認識しました。
人付き合いって
時間をかけてこそわかってくる
ところってありますね。
ワタシは、ただひたすらに
いまの自分が感じるままに
自分のことを話していきました。
早合点をしてしまい
物事の表面しか得られなくて
多種多様な事柄に手を出して
疲れ果てて
浅はかな自分が浮かんでくる・・・
そんな自分の分析を
ただひたすらに聴いてくれる。
そうしてしばらくして・・・
「自分を認めてるって言ってるけど
何もできない自分は、認められてない?」
「親から認められたい?」
そうした声が返ってきました。
頭では、わかってたはずなのに
ワタシの達成基準は
「親が満足するかどうか」
ここに焦点が合っている・・・でした。
ほどほどに力量を加減して
適度にする・・・
この基準も「親が認めるかどうか」
決して「自分に与える余力の加減」
コレではないということです。
だから、頑張り過ぎて
自分の力量を超えてしまう。
もっと根本的なところには
5才の頃にみた父の吐血した場面。
母の泣き、血をぬぐう姿。
不安におそわれた夜の記憶。
子供ながらにおもったこと・・・
「父は、いつまで生きるの?」
「ワタシが支えなくちゃ」
「外で得たいいものを、家族に与えなきゃ」
いろんな思い詰めた記憶が
またまた浮かんできたんです。
ヨソの人達は、みんな幸せ。
ウチの人達は、幸せなフリをしてる。
そういう変な思い込み。
ワタシは、可哀想と想ってもらって
人から慈悲をもらっているのが一番似合ってる
だから、幸せそうにしてちゃだめなんだ。
だから、こっそり幸せを味わうばかりで
他人の目には幸せな姿を見せるのが嫌でした。
どこか、苦しんでいなければイケナイ・・・って。
もう、そういうことを
第三者の目(俯瞰の眼)で観れるようになった。
いよいよ手放しの時がきたみたい。
こうした時点がくるまでは
じっと自分の中に意識を向けて
いるばかりでした。
タロットでいうトコロの
「隠者」
外の気配も音も遮断して
自分の中に耳を澄ませ
自分の目を信じて
真価を求めて
自分の足で歩みを進める。
すこし
自分のことを勘違いしていたようです。
*ここで、あなたに質問します*
あなたの「ゴールの基準」
それは、どこ由来ですか?
書き出すと
心の整理になります^^
よかったら、シェアしてみませんか?
>>>メッセージ<<<
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~タロットに聴く~につづく
