今年も3.11が過ぎました。



この日が来るとわたしが思い出すのは、

福島で被災しながら働いていた

元同僚の女の子のこと。





わたしよりいくつか年下だったその子は、

震災後しばらく経ってから、

わたしの働く大阪府下の病院に途中入社してきた。


朗らかで人当たりがよく美人で

少し東北なまりがある

わたしと看護倫理観が似た子だった。


当時30代はじめの中堅看護師だったわたしと20代半ばの彼女は

たまにご飯に行くくらいは仲良くなり、

プライベートな話もするようになった。


映画が好きなこと

婚約者がいること

福島には両親がいること


震災当時は福島で病棟勤務をしていたけど疲れたので、しばらく安心して暮らすために一度住んでみたかった関西に来たこと。


仕事もできて気も合ったので、

大阪が気に入ったらずっとここにいればいいよー、なんてわたしはお気楽に言っていた。






そんな彼女は

数ヶ月に一回福島に帰り

健康診断を受けていた。



ある日の勤務中、

「福島に帰ることにしました」

と告げられた。


だいぶこっちの生活や病院にも慣れてきていたのにどうして今?と思って

安直に聞いてしまった。


後に、

ふたりでご飯に行って

教えてもらった。


甲状腺の数値が上がっているので、

戻って治療しなければならないと。




震災後の福島は

原子力発電所の事故による

放射能による地域汚染が囁かれていた。


そんな中彼女は

被曝の不安を抱えながら

病棟勤務を続けていた。


どんな状態でも医療従事者は、

入院中の患者さんを置いて

自分だけ逃げるなんてことはなかなかできない。


ケガや不調で働けなくなる人もいて勤務者が減る中、

通常よりさらに過酷な勤務環境の中で

彼女は働き続けていた。



「なんでもっと早く逃げなかったのか、ずっと後悔していたんです」


「でも、逃げられない患者さんを置いて、わたしだけ逃げられないなって」


「ここで福島を離れたらひどいやつだと思われると思って」


「お父さんとお母さんもいるし、わたしだけ逃げられないなって」



「ほんとは怖かったのに」



目に見えない放射能のリスクに脅えながらしばらくの間福島で働き、

結局心身の調子を崩し、

親から「福島を離れなさい」と促されて関西にやってきたのだと言う。



いま思い出しても喉がつまる

彼女の言葉たち。


同じ環境に置かれたら

当時のわたしもそうしただろう。



看護師のような職業に就く人間は

奉仕や自己犠牲が根底にありやすい。


そんな中、

医療従事者や公的な人間は滅私奉公がすばらく

自己中心的な人間は良くないという同調圧力もあっただろう。


今でも、

人々が震災の記憶を振り返る時

自分の危険をかえりみず他人を助けたような人が礼賛されている記事なんかを見かける。


その勇者たちが

生き延びていても

死んでいても。




「なんではやく逃げなかったのか」


20代半ばで、そんな判断なかなか出来ないだろうと思う。

自分のことだけ考えて、患者さんを放って家にいるなんてできないだろう。

長く住んだ場所を捨てて違う土地へ行くなんて、考えにくいだろう。


「ほんとは怖かったのに」



新型コロナが流行した頃も似ていたなと思う。



彼女と最後に会った時だったか、

「彼とも別れるつもりです」

と話を聞いた。


すでに対面していた婚約者のご両親から、

彼とは別れて福島で治療に専念して欲しいと申し出があったとのこと。


一瞬腹が立ったけれど、

少しすっきりした彼女の顔を見て、

わたしは何も言えなかった。


彼女の人生なのだ。



きっと、

震災の影響を受けた人の中に、

こんな話はいくつもあったのかもしれない。


のちに政府は、放射能汚染と甲状腺癌の因果関係は低いと報告を出したけれど

「よく言うわ」

とわたしは拗ねた気持ちで聞いていた。


低い?

そうね。

低いかもしれないね。

でも、いるんだよ。

目の前に、いたんだよ。


何万分のいちかもしれないけれど

わたしの目の前に

確かに

いたんだよ。




福島に戻ってからの彼女とは、

一度しか連絡を取らなかった。


わたしもその頃に離婚のゴタゴタが起こり、

誰かを心配していられる状況ではなかったからだ。(体重が40キロを割り死にかけた)




3.11の頃が来ると思い出す。



かわいらしいあなたが

今日

どこかの空を見ながら

笑っていてくれたらいいなと思います。