亡き友人が吉田拓郎のファンであったので、静岡県掛川市「つま恋」でのコンサート映像を、よく見た。1970年代に35000人ものファンが集った、伝説のコンサートだった。
ここでは「ポプコン」も開かれて、才能ある歌い手たちが、チャンスをつかんでいった。
この「つま恋」の今を、ご存じだろうか。
今年はある教祖の生誕百年にあたり、広大な元つま恋が、今は、その普及センターになっているようだ。その説明も、施設に明示されている(ネットでの写真より)。
藤井風の両親が、この教祖を敬愛してきたようで、風のファンの方が、風の歌詞のほとんどが、この教祖のことばだと教えてくれた。
私は、この信仰について知らないで風の曲を聴いたので、若い人なのに、こういうことばをよく生み出せるものだと感心していた。
もちろん、信仰は自由なのだが、拓郎や春馬が、自分のことばで音楽を生んできたように、風もそういう人であると思っていたから、驚いたのだ。
私の他にも、このようなことを知らない人がいるのではないだろうか。
風のファンなのに、知らず知らずのうちに、その教祖の信者になってしまっていたら、どうだろう。
私は以前、ある新興宗教団体の本部が建つ街に住んでいたことがある。教祖が選挙に出て、通勤で毎日のように通る駅前で、信者の人たちが、教祖の名前を音楽に乗せてうたっているのだった。
覚えたくなくても、今でも耳に残っている。
信仰とは、本来、主体的なもので、気づいたら誘導されていた、というものではないと思う。
春馬の生き方は、何か、自分以外の大きなものに巻き込まれてゆく生き方とは、対極にあると思う。
春馬とは実力に大きな差がある(と私が思う)人たちが、春馬が叶えようとしたしごとを得るのを見る時、何か、彼ら自身ではない、後ろ楯があるのを感じる。
藤井風の初期の曲には、風自身のことばだと感じる曲もある。
風自身の才能や人間性を十全に生かす生き方もあるはずではないだろうか。
春馬の幸せは、親から離れて、自分自身の人生を歩んだことだと私は思う。
あと一歩で、春馬の自由は叶うはずだった。
元つま恋が、表向きは、昔も今も、音楽に関係のある地になろうとしている。
しかし、その本質的な違いは、これから明らかになってくるのかもしれない。