高校の倫理で一度は聞いたことのある『死に至る病』で著名な哲学者ですね。
「実存は本質に先立つ」とは実存主義者の弁であり、私は真逆の本質主義に近い考えを有していますが、キルケゴールのグルグルとした考え方は嫌いではないです(*^^*)
「死に至る病とは絶望である」(第一部)
「絶望とは罪である」(第二部)
自己の超越的次元(絶対他者、つまり神)への関係において、絶望から脱する道が示される。
というのが著作を通じて論じられていることです。
この話をした時に、思い出したことがありまして。
私は中学生から自己破壊願望が強いタイプでした。
だからといって自傷に走るわけでもなく、
自殺願望があったかというとそうでもなく。
ただ、要所要所で「あ、私ここで死ぬ筈だった」という「前回までの私の記憶」をフッと思い出してしまうんです。
私がこの「横内のぞみ」という人生において、自分の繊細さや敏感さを能力と気付いたのが「つい最近の生」であり、それまでは制御しきれなくて自ら命を絶つことも多かったのだと思います。
「死んでしまう」という感覚を鮮明に覚えているからこそ、私は本当に怖がりで、体に傷がつくことが耐えられませんでした。
にも関わらず、あるタイミングが来ると思い出したように命を落としたことは、観測すると興味深いものがあります。
同時に、魂が意図する「最終目標」も見えています。
おそらく、この歳にこれを達成しなければ、また「次の私」になるだろうことも(*´-`)
これは持論ですが。
自殺をしたらそれでおしまい。ということはないのですよ。
でも、だからといって、それでカルマが生まれる。というのもちょっと違うような感じがするのです。
ただし「原因と結果の法則」によって、誰かに不必要な悲しみを与えた場合、時と空間を越えて「刈り取るべき種」にはなりますが。
(悲しむことは相手の「選択」ですが、死んだ後スピリットはそれを「見る」ことによりエネルギーを正そうとするので)
「リセットされるならむしろやり直したい」と考える方も中にはいらっしゃると思うでしょうが、それはちょっと待ってください。
今、命を絶ったとしたら、それは「問題から成長していない状態」のまま。
「今と変わらない私」の延長線上であるなら、同じような状況でまた死を選択する可能性が非常に高いということです。
つまりそれって、死んでも終わりではなくまたここまでの「やり直し」でしかないないなら、
なんとしても「この先」を好転させることがベストな方法なのです。
シータヒーリングには予め決められている神聖なるタイミング(ディバインタイミング)という考え方があります。
未来はチェンジすることが出来ますが、
自分の人生における重大な出来事や、他人に対して大きな影響を及ぼすいくつかは「そうなるように」なっているのです。
「じゃあ、『誰かのために死ぬこと』がディバインタイミングの人もいるの?」
という質問を以前受けました。
その時は肯定しましたが、今になって考えると
ある意味においては正解で、
ある意味においては不正解と言えることだと思います。
誰かのために死ぬのがディバインタイミングである大きな例としては、イエス・キリストですね。
今の時代、人を目覚めさせる役割を持つ人は、している仕事に関わらず第5層のマスターだと言われていますが、
中でも法則に近い場所から来ているマスターは「象徴的な死」のために生まれています。
(高いバイブレーションの魂はこの世界で3日しか生きられないので、流産も同じく「象徴的な死」)
法則に近いマスター以外は「最高最善にこの人生を楽しむ」ことが共通するテーマだと腑に落ちたので、死ぬことが目的とは思いづらくなりました。
魂全体で見ると「自殺するために生まれてきた」という計画はなさそうです。
あなたの人生を楽しんでください。
そう何度も言われます。
生まれてから死ぬまでの間、死の扉は何百とあります。
その扉を開くと「肉体的な死」となりますが、レベルアップの通過儀礼(イニシエーション)として「開きかける」ことはままあります。
(自殺は過去生におけるイニシエーションの名残ではないかと思ってしまうこともあります)
最終的に扉を開けるかどうかはその人のハイアーセルフと魂が選択決定します。
なので、寿命というものはないのですよ。
80歳になったらそろそろ準備する。というのは集合意識です。
以前リーディングした時、294年生きられると言われましたが、それが一般的になると「絶望による死」がどれ程多くなることか!
今日はまだベッドから抜け出せないため、ほんの呟き程度ですが。
ディバインタイミングやイニシエーションについてはまたゆっくり論じたい、興味深い内容です(*^^*)