◆「小さな花」 | 現在ブログお引っ越しちう。

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「小さな花」




私には、このアメブロで出逢った、とっても大切な人が2人います2


1人は、児童虐待やDVでかつての加害者であった


は私がこの活動を始めるに当たって、加害者も支援したいと思わせてくれた、


そして自分自身も加害行為に苦しむ人を救いたいと頑張っている人ですファイト


世間的にまだまだ加害者が名乗りをあげるには風当たりも強く、


自身もまだまだ苦しみの最中ですが、私は を心から尊敬し、


心から応援しています、そして是非とも幸せになって欲しい祈る



そしてもう1人は、私と同じ、被害当事者です。


既にアメブロをやめていますが、同じ被害当事者であり、


こんな活動をしていて様々な被害体験を見聞きした私ですら、


彼女の歩いてきた人生は壮絶で、何度も言葉を失いました。


その内容を語らなければ、そんな過去を抱えて生きてきたとは思えないくらい、


とっても明るくて、とっても優しくて、とっても心のきれいな人でした。


その心には、私の想像をはるかに超える大きな闇が渦巻いていて、


私の想像をはるかに超える大きな苦痛を彼女に与え、縛っていました。




私が彼女と出逢った時、彼女は「小さな花」という名前でした。


今思えばまさにその名の通り、彼女はとてもとても小さな、


今にも折れて枯れてしまいそうな美しい花でした。


誰の目にも止まらないほど小さく、踏み潰されればすぐに倒れてしまう、


そんな儚さながらも、幸せになろうと必死に空を見上げていました。


何度も何度も自分と向き合い、その度に襲うパニック発作と戦い、


それでも立ち上がって過去を見つめ、自分を見つめ、現実を受け止め、


時にはその人生を「前世の罰だ」と罵られ、からかわれ、傷を深め、


何度も折れそうになる自分を奮い立たせて、必死に傷を手放そうとしていました。


私はそんな彼女を見る度に、どうしてこんなに苦しまなくちゃいけないのか、


どうしてこんな深い傷を負わねばならなかったのかと、身を切られる思いでした。


児童虐待が与える傷の深さ、それを思い知らされた存在でもありました。



彼女は何十年もの間、ずっとその傷に苦しみ続けて、


それでも自分と向き合うことをやめずに、ずっと空を見上げていました。


そして最後に彼女が出した答えは、


「苦しみを抱えたまま生きていく」


それは、彼女がこれからの人生を生きる為に必要だと思ったそうです。


この苦しみから解放された時、この傷から解放された時、


自分は発狂するかも知れない、苦しいからこそ今日まで生きてこれた。


一生続くだろうけど、私はこの苦しみを抱えたまま生きていきたい。


私は、それが彼女の望む生き方なのであれば、それで良いと思いました。


これだけ長い間苦しんで、ずっとずっと逃げずに自分と向き合って、


その末に出した答えがそれならば、もう十分ではないか、と思いました。



残念なことに、現在彼女とは連絡が取れなくなってしまいました。


私は彼女が大好きだったので、連絡が途絶えたことを大変残念に思います。


でも、私と繋がる以上、私がこの活動を続けている以上、


その先には必ず児童虐待の現実があり、見え隠れすることになります。


どんなに私が個人的にお付き合いをしたとしても、私の後ろには常に虐待がある。


それはもしかすると、彼女にとって、とっても苦しいかも知れない。


そう思うと、私が唯一彼女に出来ることは、そっとしておくことかも知れない。


彼女が私を思い出してくれた時に、いつでも笑顔で迎えられる様に、


その日が来るまでそっとしておくこと、


その日が仮に来なくても、それが彼女の選んだ道だと受け容れること。


それしか私には、今の彼女の為に出来ることはないのかも知れない。




彼女が最後に自分の過去に触れ、私に話をしてくれた時、


「どうか私達の歩いた道を、もう誰にも歩かせないで下さい。

どうか私達が受けてきたことを、繰り返さない為に役立てて下さい」


そう言っていました。


私もこの活動を始めたのは、全く同じ気持ちからでした。


自分の歩いた道を、もう誰にも歩いて欲しくない。


自分が受けてきたことを、もう誰にも受けさせたくない。


でもきっと、彼女の思いは私よりもはるかに強く、魂の叫びだったと思います。




この世に生まれ、一番愛して欲しかった人に暴力を振るわれ、


心も身体もボロボロにされて、生きる意味も存在価値も見失って、


それでも生きなくてはならなかった私達は、何の罪があったのだろう。


虐待死した子ども達のニュースを見て、ホッとする自分も過去にはいました。


良かった、たった1年しかこの子は苦しまずに死ねたんだ・・・


そう思っていた自分が、昔の私の中には確かにいた。


いっそ殺してくれれば良いのに。


そう思って生きてきた子ども時代を振り返ると、


一生その傷を背負っていく苦しみを思えば、


殺された子ども達は、胸が傷むけれど、ある意味では幸せに思えた。


今はもちろん、そんなことは思わないし、それでも生きて欲しいし、


死ぬよりも生きる道を選んで欲しいと心から思うけれど、


それを選ぶことが死ぬことよりもずっと苦しく、ずっと重いことも知っています。


死ぬのは一瞬だけど、生きることは私達にとって、とてもしんどい。


だからこそ、生きているだけでもすごいんだと、心から思っています。



色んなことを知れば知るほど、私は加害者を責めることは出来ません。


やった行為に対しては厳しいことを言うけれど、


そこに至るまでの経緯を知れば知るほどに、その人は特別じゃない。


私だって一歩間違えばそうなる、誰だってその可能性はある。


それほど身近に、児童虐待のリスク要因は転がっています。


でも、虐待を受ける子ども達の一生を考えたら、背負う重荷を考えたら、


その行為自体はやっぱり許されるべきことではないし、責任は重い。


だからこそ、目を背けずに現実を知って欲しい、私達の声を聴いて欲しい。




「小さな花」は、簡単に踏み潰されてしまうほどの存在だけど、


そこにも踏み潰した人と同じ「命」があることを知って欲しい。


有名な専門家の人達の様な大木ではないから、なかなか目につかないけれど、


そこには何度も踏み潰された「魂の叫び」があることを知って欲しい。


あなたが気付かないだけで、ちょっと周りを見渡せば、


そこには必死に生きようともがいている「小さな花」があることに気付いて欲しい。





彼女の願いを受け止めて、


私に出来ることは本当に限られるけれど、1つでも多くの花を守れる様に、


これからも歩み続けていきたいと思います。