今日は調べ事の備忘録としてブログをアップしています。
前回書いた藤原鎌足とされる阿武山古墳についてのブログがあります。
このブログは、実際に阿武山に行き、過去も見事に調べたブログなので、興味のある方は是非一読ください。
これは先ほどのブログで紹介されている、藤原鎌足と言われるミイラの写真です。
そしてこれは頭部のX線写真
そしてこれは、玉枕と大織冠の復元写真。
頭部のX線写真の後頭部に沢山ある黒い丸いものは、上の写真の緑色の枕だったと言われています。
この枕は、天皇陵クラスの墓からしか出土例が無いそうです。
そして、この赤い大織冠。今までの調べでは、この大織冠を授かった人は、日本でただ2人。
662年百済から亡命していた豊璋と言う人と、669年天智天皇から藤原の姓と大織冠を授かった鎌足だけです。
当時の調査から、また脊椎の複合骨折、第11胸椎の圧迫骨折、左12肋骨の骨折が確認されました。同時に治療の痕も確認されて、このミイラの人物は酷い腰の骨折から約半年程は生きていたと言われています。
藤原鎌足と言えば、蘇我入鹿を殺して、中大兄皇子(なかのおおえのおおじ)を天智天皇にした人物です。
平安時代に強力な権力を掴んで、常に天皇の側にいた藤原氏の祖先が鎌足です。
これは奈良の有名な石舞台古墳。
だれの墓かといいますと、藤原鎌足に暗殺された蘇我入鹿のおじいさんである蘇我馬子の墓です。
暗殺された曽我氏の墓はこのように目立つ墓なのに対して、どうして藤原鎌足の墓は目立たない山上にひっそりと作られていたのでしょうか。
平城京に対して平安京というのは、平城京の物事を一切持ち込まないような思想で造られています。例えば寺。平安京の中で立てられた寺はほんの二つだけだったそうです。一つは東寺、もう一つは現在はありませんが西寺。これは平安時代の祖である桓武天皇が、奈良の寺社の京都への進出を拒む為に決められた事でした。
平安京は藤原氏栄華の時代のはず。どうして始祖藤原鎌足を手厚く祭らなかったのでしょうか。
戦国時代や江戸時代は、象徴として寺院などが造られてきた。それは、政治的な意味が強かった。しかし、平安のままほぼ400年も続いた平安時代、しかも実質天皇を越える実権を掴んだ藤原氏に象徴など必要がなかった。
1934年に見つかった藤原鎌足と思われる埋葬者。当時は朝日新聞のスクープのおかげもあってこの場所に2万人もの人が訪れた。
それから70年経った今でさえ、この事を覚えている人は僅かで、だれも振り向かなかった。
鎌足が死んで100年200年を越えた時、藤原道長は、
「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」
と歌を歌います。
自分自身が象徴の時代に鎌足は必要なかったのでしょう。



