生き抜いた天皇 |         きんぱこ(^^)v  

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      砂坂を這う蟻  たそがれきんのすけ

1467-1477に、応仁の乱があった。



こんな乱の説明などしていられない。



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足利義政に子供が無くて弟の義視(よしみ)に、


「もう将軍をやめたいから、おまえやってくれ」


と頼む。



義視(よしみ)は慎重な人で、


「そのうち子供ができますよ」


と断る。



しかし、「絶対に子供が生まれても出家させる」と頼み続け義視も折れた。



そこに、細川氏山名氏



「あいつだけはゆるさん」



と喧嘩を始めてややこしくなってきた。



なんとそこから下々が相続争いや喧嘩を始めて数珠繋ぎに紛争が始まった。



普通は天下を取るとか、生き残るとか大きな筋を考えて争う。



しかし、こいつらは違った。



お前は憎いからどっか行け!、追い払ったら俺は安泰だ。



それだけだった。



下々も相続争いなどが起こる。



当然、山名や細川を見方につけようとする。



この頃の兵隊は訓練を受けているような連中ではなく、いわば山賊や盗賊、浮浪人の集まりだ。



「おいおい、将軍様には子供が無いぞ」



「おうおう、山名と細川もとうとうやりだしたな」



「おもろいやないか、おう、おまえどっちつく?」



「おりゃぁ、どっちにもつくぞ。どっちからも金を巻き上げる、がははは」



「そうだな、真面目にやってられるかい」



そんなかんじで右についたり左についたり。



当の足利義政は


そんな中で義政に子が生まれた。



妻は日野富子。子供は義尚



京都は将軍の後継を利用して、将軍を守るべきもの同士が戦争を始めた。



平たく言うと、京都で20万人が11年も喧嘩をやった。



領地を取るわけでもなく、相手の大将首を取るわけでもなく、金で雇った兵隊は、この戦争の馬鹿馬鹿しさを知っていて、西については金をもらい、東については金をもらい。



ズルズルダラダラと京都に家が無くなるまで続いた。



結局山名氏が「国に帰る!」と帰っていって乱が終わった。



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応仁の乱の最中、後土御門天皇義政のいる室町亭に避難。



京都の町は荒れてゆく。



後土御門天皇は義政についてゆくしかなかった。



将軍義政にしても天皇にしても収入がないのでどんどん資産が消えてゆく。



将軍以下の武将がみんな喧嘩を始めて、将軍や天皇などどうでも良くなってしまっているからどうしようもない。



しかし、過去の栄華にも慣れていた後土御門天皇は義政と花の御所で歌ばかり歌った。



巷では天皇などどうでも良くなっていた。


応仁の乱が終わって、天皇は御所に戻ったが、調停の儀式を行おうにも全くお金が無かった。



だれからも見放されたまま、崩御(亡くなった)。



後に行う葬儀の儀式の費用もなく、44日間も遺体を埋葬することが出来ずに悪臭の中を放置されていたという。



天皇がだ。



欲と力と嫉妬が蠢く時代。



秩序がないので何をやっても構わない。



天皇が次に譲ることを譲位(じょうい)と呼ぶ。


天皇が崩御(亡くなる)されて一年間は即位の礼(そくいのれい:実質天皇になる儀式)はできない。



葬式の金も無く、後を継いだ後柏原天皇は即位の礼も出来ずに困り果てた。



側近は命がけでお金の工面に走り回った。



やっと幕府と本願寺から献金を受けて、即位の礼を行えたのが、後土御門天皇の崩御後なんと22年を過ぎていた。



応仁の乱のあとは飢饉や疱瘡(ほうそう:天然痘のこと)が流行り、宮中は天皇にかからないように必死になり、天皇はこれを憂いて、「般若心経」を自ら写経して、門跡の仁和寺などに奉納した。



武力を持たない天皇、どんな時でも国民を励まさなければならない教育を受け育った天皇が出来ることはこのようなことでしょう。



子供を心配する親でも、どうしようもなくてお宮さんに「どうか無事ですように」とたのむでしょう。



その後を継ぐ後奈良天皇も即位式をあげられずに10年経ってやっと今川氏などの献金で式を行えた。



正親町天皇は40歳で即位したが、もうこの頃は公家はもちろん天皇すら、その日の生活に窮するような毎日だった。




毛利元就などが献金して何とか生きて行けていたが、とうとう、過去からのしがらみもあるのでしょう、本願寺の顕如(けんにょ)が門跡の資格をぶら下げて献金の交換条件にしてきたが、それを飲んで門跡の称号を莫大な金で買い取ってしまった。



これを私は恥とは思わない。それほど苦しかったのだろう。



弱い気持ちではなく、天皇を終わらせるわけには行かないという強い気持ちがそうさせたと思う。



以降、こんなことは天皇の歴史に出てこないことでもわかるでしょう。



この天皇は苦労人で、織田信長が天皇を利用しようとした様々の画策に耐えて、子供の誠仁親王(さねひとしんのう)に譲位しようとしても親王は34歳で病気で亡くなってしまう。




織田信長という人はご存知の通り、過去のしがらみを嫌う人物だ。



延暦寺焼き討ちを見るだけでもそれがわかるだろう。



天皇に近づいたのは利用以外のなんでもなく、正親町天皇それを必死で耐えた。



もし、織田信長が天下を取っていたら、天皇の歴史は終結していたかもしれません



しかし、孫を必死にかわいがり、後陽成天皇を16歳で誕生させた。




後陽成天皇の時代は豊臣秀吉



ここで優遇とはならずともやっと儀式まで行える水準に戻ってくる。



天皇は公家とはまた違う超然とした感覚を保ちながら生きてゆかねばならないのだろう



参考


  室町時代(1336-1573)


後土御門天皇(1442-1500)1464


  応仁の乱(1467-1477)
後柏原天皇(1464-1526)1500
後奈良天皇(1497-1557)1526
  戦国時代(1493-1573)
正親町天皇(1517-1593)1557
後陽成天皇(1571-1617)1586


  安土桃山時代(1568-1603)