「チェルビ」第六十六話(最終話) 恋愛連載小説
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「チェルビ」 第六十六話(最終話)
四年後。
今日は、クライアントとの最終打合せの日だ。
部下の新人スタッフを一人連れて、地下鉄で移動している。
横長の車内シートに、並んで座っていた。
現在、僕は、自分で立ち上げた企画営業部の統括マネージャーという肩書きで仕事をしている。
一年前に、結婚した。
相手は、得意先の社長の長女。
いわゆる社長令嬢だ。
業界の大規模なパーティーで知り合い、付き合って一年と半年ほどで籍を入れた。
八ヶ月後には、第一子が誕生する予定だ。
平日の昼の車内は、一駅停まるたびに、乗客が少しずつ増えていく。
クライアントのところまでは、あと二駅だ。
僕たちの前にも、乗客が数人立っている。
一つの小さな光が、一瞬、視界を横切る。
若者の間で話題の、高級ブランドの黒いショルダーバッグ。
その肩ベルトの付け根に、金属製の黒いリングが通っている。
そこに、見覚えのある銀色の光がぶらさがっていた。
青や赤が、まばらに光る粒子状の模様。
間違いない。
僕が、彼女に渡した指輪だ。
真白なドレスシャツと同化したような白い手。
完璧なまでに形のいい指と、光沢のある綺麗な爪が見える。
頭の中で、あの数ヶ月間のことが、超高速で再生される。
急激に、強く暴れだす鼓動は、心臓だけでは受け止め切れない。
その巨大な振動は、肉や骨を通して体全体に伝わってくる。
呼吸が不規則に乱れる。
酸素が足りないのか、息を吐くことができないのか、唇を閉じることができない。
喉の壁同士がくっついてしまい、口の中全体が気色悪い。
思考能力は、完全に狂ってしまっている。
自分の力では、どうにも修正することができない。
首の後ろの筋肉が異常に硬直していて、顔を上げることができない。
目線の高さに、静かに存在感を放つ指輪と、見覚えのある白く細い指がある。
何が起こっているのか、すぐには把握できない光景が目に入り込んでくる。
どことなく非現実的な状況に、僕は全く身動きできない。
電車が停車して、出入口のドアが開いた。
ショルダーバッグにぶらさがっていた指輪が、大きく揺れる。
他の乗客と一緒に、彼女が降りて行く。
綺麗な歩き方を伴った後ろ姿を、目で追った。
ホームに降りた女性が立ち止まった。
こちらを向く。
目が合った。
僕は、視線を外すことができない。
彼女は、白い手のひらを軽く振っている。
僕も軽く手を振り返す。
電車の窓越しに見える静かな笑顔は、僕が見たことのない笑顔だった。
「めっちゃ綺麗な人ですね。知り合いっすか?」
隣に座る新人スタッフが、興味深そうに聞いてきた。
「知ってるけど、何も知らないし、何もわからない人」
「なんなんすか?それ」
彼は、僕を馬鹿にしたような口調で、言葉を発したが、なんとなく事情を察したのか、クライアントのビルに着くまで一言もしゃべらなかった。
彼女に関する記憶は、この日以降、ゆっくりと薄れていった。
ただ、時々、無表情のくせに、やたらに甘えてくる猫のことが思い出される。
今思えば、彼女とあの猫は、よく似ていた気がする。
何を考えているのかわからないが、絶対に何かを考えている。
僕の記憶の中。
チェルビは、前足に乗せた顔を、僕のほうに向けている。
やはり、無表情で、何を考えているのかわからない。
「チェルビ」という名前は、多分、一生忘れないだろう。
彼女は、この名前に「意味なんかない」と言っていた。
彼女の全てが当てはまる言葉だ。
僕とユイとチェルビは、はじまって、終わった。
そのことに、意味はない。
今が幸せなのは、全て、今の僕の力によるものだと断言できる。
仕事を終えた、会社からの帰り道。
途中で、家の灯りがついているのが確認できる。
玄関を開けると、幸せな笑顔が出迎えてくれる。
後ろから抱き締めた幸せ。
絶対に離さない。
これが、僕の全ての理由だ。
これからも、これだけは“絶対“だ。
僕の手に重ねられた優しい手。
その手から伝わってくるものには、僕に対する絶大な信頼と、素直な感謝の気持ちが溢れていた。
僕も同じ気持ちだ。
重ねられた手がゆっくりと離れていくのを引き戻す。
僕は、永遠に続いていくこの幸せを、赤い髪の少女と無表情な子猫に、少しだけわけてあげてもいいと思った。
「チェルビ」 - 完 -
「チェルビ」を読んでいただいた皆さま、本当にありがとうございました。
また、気が向いたら、新作(連載)やります。
わたしのことなので、どうなるかわかりませんが・・・。
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