私は小学校のころから長いこと、人との関係性をあまりたくさん望むことなく、ここまで来てしまいました。今でもわりとその傾向があります。特定の場所が好きなように、特定の関係性が好きというのはもちろん、独りが好き、という部分もあるんだとは思います。それが落ち着く感覚。

そんな私でもいっちょまえに社会人になれたのは、専門職として力が発揮できたこと。そして、そこに確かな理解者がいてくれたこと。思えば独りと思っていた時期でも、確固たる理解者が必ず居たからこそなんだなぁ…と思う。

でも相変わらず、関係性を創るのがあまり上手に出来なかったり、関係性について悩んでいる感覚を持ってます。

何かを求めても拒否されるのではないか、どこまで相手に求めていいのか、それは甘えなのではないか…。

いつもいつもいつも、そればかりを考えてしまうこともあるし、甘えにならないために自分で出来るギリギリまでやって当たり前。という生活を続けてきました。そして同時に、ひとりで出来ないことは決してやらない、そんなところも。誰かに接して関係性に思い悩むのが嫌で、そんな選択をし続けて来ました。

今は大きなセミナーのアシスタントやスタジオの運営を通して、ジリジリと関係性を創るということを学んでいる最中。

でも相変わらずちょっと苦手。

距離感が分からない。「距離感30cmか、300mしか出来ない」って、いつもこんな風に説明するのだけど。甘えちゃいけない!と思うと300mどころかそれ以上に遠く~に離れてしまうし、親しいと思うと踏み込みすぎてしまうことも…。

でも最近、そんなでも良いのかなって、ちょっと思い始めたところ。

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私は小学校のころから長いこと、人との関係性をあまりたくさん望むことなく、ここまで来てしまいました。今でもわりとその傾向があります。特定の場所が好きなように、特定の関係性が好きというのはもちろん、独りが好き、という部分もあるんだとは思います。それが落ち着く感覚。

そんな私でもいっちょまえに社会人になれたのは、専門職として力が発揮できたこと。そして、そこに確かな理解者がいてくれたこと。思えば独りと思っていた時期でも、確固たる理解者が必ず居たからこそなんだなぁ…と思う。

でも相変わらず、関係性を創るのがあまり上手に出来なかったり、関係性について悩んでいる感覚を持ってます。

何かを求めても拒否されるのではないか、どこまで相手に求めていいのか、それは甘えなのではないか…。

いつもいつもいつも、そればかりを考えてしまうこともあるし、甘えにならないために自分で出来るギリギリまでやって当たり前。という生活を続けてきました。そして同時に、ひとりで出来ないことは決してやらない、そんなところも。誰かに接して関係性に思い悩むのが嫌で、そんな選択をし続けて来ました。

今は大きなセミナーのアシスタントやスタジオの運営を通して、ジリジリと関係性を創るということを学んでいる最中。

でも相変わらずちょっと苦手。

距離感が分からない。「距離感30cmか、300mしか出来ない」って、いつもこんな風に説明するのだけど。甘えちゃいけない!と思うと300mどころかそれ以上に遠く~に離れてしまうし、親しいと思うと踏み込みすぎてしまうことも…。

でも最近、そんなでも良いのかなって、ちょっと思い始めたところ。


私たちはみな、基本的に泥棒です。

といわれたことがあります。

ヨガでは『本来自分のものでないものを受け取ることは、相手が誰であろうと盗みに値する。(盗むな:アスティア)』という教えがあるわけだけど。

私たちは誰かから技術を盗むことがあるし、模倣することがある。しかも無意識にやることもあれば、意識的にやることもある。だから、基本的に私たちは皆、盗人です。

ということなんですね。
私、本当に盗みまくっているなぁ…と今日改めて。アイディアが貧困でどうしたらいいのか、サッパリ分かんないからなんですよね。(問題が問題なのではない。アイディアがないのが問題だ。のワナ。だから自分の中でも問題が発生してるんだろうね。)

私は基本的に技術職に着いていることが多くて、そういう生活の中では技術をもちろん座学として学ぶこともあったけど、その先の「とりあえずやってみる!」ということに関しては、やっぱり最初は盗んだことから始めてきた気がする。

そもそもヨガって脈々と伝わって来ているもので、個々の持つオリジナルなものではないわけで、だからやっぱり盗人といえる。

もちろんそこから新たな形を造り出すことがあったとしても、すべてを変えてしまったら、もはやヨガとは言えない。

といって、ただ盗んだものを続けていくのは、それはやっぱり自分のものではないので、苦い思いをしたり、スッキリすることなく永遠に続く。

いつかどこかに「自分らしさ」を見いださない限り。

「基本的に盗む」ということに対し、ヨガの聖人であるラマナ・マハリシが述べているそう。

『ありうるかありえないかと思いはかる事を止めて、自己への瞑想を持続するべきである。たとえある人が大いなる罪人であっても、「ああ、私は罪人だ。どうすれば救われるだろう。」と悩んだり泣いたりするべきではない。人は「私は罪人だ」という思いを完全に捨て去り、鋭く自己への瞑想に集中する べきである。そうすれば確実にうまく行くだろう。』(ラマナ・マハリシの教え・ 山尾三省訳)

結果的には終着点は「私は誰か?」と自分に問うことが大切であって、その上で「どう生きるか?何をすべきか?」のダルマ、カルマ(すなわち土台、理念)を見つめていくことが重要なんでしょうね。

そしてそこに徹することで、自らの罪人であるという思いを捨て去って行くことなのかもしれない。

ふぅ。私のダルマとカルマはどこにあるの?