私にとっての「愛情の形」 | 自分らしく生きるために、今できること。

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結婚10年、男の子+ワンコと暮らしてます。


みじめに思う自分。
カッコ悪いと思う自分。

出したくない自分を出す練習をしてみる。

こんにちは、由佳です。




結婚するとき、うちは結納をしなかった。

お姑さんが「そんなのしないよ」と言ったからだ。

旦那さんもいらないと言った。

あぁ私は嫁として歓迎されていないんだなと思った。

でもそんなことを伝えたら
本当はあちら側にそんな風習がないからで
私がどう思われているとかそういうのとは関係がなかった。

旦那さんも、苦労して育ててくれた親だから
これ以上お金をかけてほしくないという愛情からだった。


だから私は
「どうして結納の話が出ないのよ」といううちの母親を
頑張って説得した。

「あちらにそういう風習がないだけだし、負担もかけたくないのよ」と。

たくさん融資をしてもらっている妹夫婦と比べて
「かわいそう」という目で見る母を説得するのは

何だかむなしかった。



そのあと
新生活を始める私たちを見てお姑さんは

「お金は大丈夫なの?足りてるの?」

と言ってきてくれて
あぁ一応気にしてくれてるんだーとちょっと嬉しかった。
それで結納の件はふっ飛んだ気がした。




私は婚約指輪ももらわなかった。
使い道もないしお金もかかるし
まぁいいかと思った。

でもその分結婚指輪は私の好きなものが欲しいと言った。


でもいざ籍を入れたら
結婚指輪いらないんじゃないかと言い出した。

今つけているペアリングが気に入っているし
どうせつけるなら思い入れのあるものがいいと言った。

私は血の気が引いた。

欲しいと言うと、いいよと言ってくれたけど
ちょっと喧嘩になった。


彼は
物を高いものを買うより一緒に旅行をして思い出を作りたい、という気持ちだった。
確かにそれも素敵な話。

決して私が無下に扱われているわけではない。

彼は毎日その思い出のペアリングをつけている。

でも私はそれをつけなくなった。




どこかでお雛様の話になったとき
彼はこう言った。

「そんなものを買ってもらうくらいなら
もっと子供の役に立つものを買ってもらう方がいい。」

まー、そらそうかもしれないけど。

またもや悲しい気分になった。


何でだろう。
この虚しい気分は。

私は知っている。
幸せは「物」で測るものではないのだと。

大事にしてくれている。
そんなことは分かっている。
私の求めた幸せそのものだった。

なのになぜ
私はそんなに祝いものが欲しいのだろうか?

私はそんな卑しい人間だったのだろうか?

ずっと悶々していた。



昨日、

この人の記事を読んだとき
急に涙が溢れて止まらなくなった。



お雛様は
おばあちゃんからもらったお祝いものだった。
うちには大きな七段飾りがある。

小さい頃に撮ってもらった写真もある。

それは私にとって

この世に産まれたことを祝福されているという証だった。

だから

自分の子供に対していらないということは
私がもらったものも否定されているように感じた。



私はもう何年も、
お祝いものを包む仕事をしていて

帯祝い、出産祝い、誕生日、初節句、クリスマス…
たくさんのギフトを包んだ。
たくさんの熨斗紙をつけた。

雛人形だって鯉のぼりだって販売した(イオンは何でもするのです)


孫のために、何がいいのかと悩むおばあちゃんを
たくさん接客してきた。

どんなプレゼントだったら喜ばれるだろう?というお客さまと
私も一緒に選んできた。

いつしか

私にとって節目節目にあるお祝いごとは

あなたの幸せを願っている
あなたがこの世に産まれてきてくれてありがとう

私にとっては
そんな意味をもつ「象徴」になった。

特別になった。



でも彼にとっての象徴は別のものだった。

それだけのことだ。

だから

もらえないから愛されてないとか
そういうものではないのは分かっている。


だだ私にとってそれは愛の形だった。


結納も結婚指輪もお雛様も…象徴だった。


ただ

それだけのことだ。


だれも悪くない。


それでも「欲しい!」と思うのは
強欲なのかなと思ったけど

強欲な自分でも いい。


私にとっては
強欲な自分を認めるより

「物がなくても気持ちさえあれば!」

と、自分を誤魔化し隠し続けることの方が辛かった。


涙がダダ漏れになったのは
妹の結婚式以来。

以前の「愛が溢れた」ものとは違うけど

とにかく昨日の夜から涙が止まらない。


あぁ、困った。



こんな状況でも応援は募集中です(T_T)


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