今日は真田三代の墓(幸村は供養塔)がある長谷寺(ちょうこくじ)の紹介です。
曹洞宗の長谷寺の裏の山岩井堂山には、白山信仰を集める修験道の霊場があり、
その道筋の地には「種月庵」(創立年等詳細不詳)という無住の小寺がありまし
た。天文16年(1547年)真田幸隆公が上州(群馬県安中市)の長源寺より、
伝為晃運和尚を招いて真田氏の菩提寺として「真田山種月院長谷寺」を建立しま
した。
長谷寺です。六文銭が刻まれた石門が見えます。
真田郷の地図です。右上に長谷寺があります。
何故そうしたかというと、真田幸隆は海野氏の家臣として働いておりましたが、
天文10年の戦で海野氏は武田信虎に敗北し海野氏は滅びます。真田幸隆は
落ち武者となり、上州(群馬)の長野業行を頼り長源寺という寺に身を寄せます。
多くの僧が落ち武者である幸隆を避けておりましたが、この寺の典座(禅寺の
料理長)を務める晃運和尚は分け隔てなく世話をしました。その晃運和尚と親し
くなります。幸隆は後に武田信玄の家臣となり、海野氏の関係者と、砥石城攻略
などの活躍を行い、真田の地を信玄より安堵されて、菩提寺『長谷寺』を建立し、
世話になった晃運和尚を開山として招きました。
石門をくぐり境内に入ると、無料の冷たいお茶がありましたので、
頂きました。連日の猛暑続きで美味しかったです。
石門の方を見たところです。
真田昌幸は父幸隆の菩提のために、寺の増築改修を行い諸堂を完備しました。
しかし、慶長5年(1600年)第二次上田合戦の際に退却する徳川勢に火を放た
れ焼失。その後再建されますが、寛保2年(1742年)の台風の際に土砂災害に
あうと伝えられております。その後宝暦7年(1757年)火災により焼失します。
14代雄峰和尚により再建されますが、明治23年1月10日の火災により全てを
焼失しました。現在の建物・本尊釈迦牟尼仏坐像は昭和53年に再建されました。
長谷寺の本堂です。
長谷寺の庫裏です。
長谷寺の伽藍配置です。入山・駐車無料です。
本堂の裏に回ると
庭池があります。
池の左の階段を上ると
正面に真田家の墓地が見えます。
2重の石垣で囲われています。
中央が幸隆で左が幸隆夫人、右が子供の昌幸の墓です。
六文銭にちなんで、穴の開いた硬貨が6枚供えられています。
内側の石垣の外左に、黒めの墓石の幸村供養塔があります。
幸隆の孫真田幸村の供養塔です。最近建てられたそうです。
昌幸は九度山からふるさと真田を案じながら、帰郷の願い叶うことなく九度山に
て慶長16年(1611年)64歳の生涯を閉じます。同伴していた家臣はその昌幸
の想いを汲み、遺髪や遺品の一部を長谷寺へ運び両親の眠る下へと埋葬され
ました。
墓の説明板です。
長男信之は上田に帰りますが、その後真田は上田より松代(長野市)へ所領を移
されます。その際に、菩提寺であった長谷寺と住職も松代に真田氏とともに移り
ました。この時に混同を避けるために同じ「音」の読み(ちょうこくじ)で一文
字を変え(谷→国)て、『長国寺』を松代に建立し真田氏の菩提寺としました。
今日はここまでです。
明日は山家神社と真田氏最初の館跡?の紹介です。
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