たどり着いた心実(しんじつ)
随想 腹八分目で止めた日が、ずっと続いている。 四日目、少し驚いた。同じ量で、もう足りている。三日前は物足りなかったはずなのに、胃のほうが静かに縮んでいた。わたしが何かしたわけではない。ただ、続けただけだった。 逆もある。食べすぎた翌日は、なぜかもっと食べたくなる。胃が広がって、昨日の量が「普通」になっている。満腹の基準が、一日でずれる。 ● 八分目で続けると、八分目がちょうどよくなる。そのちょうどよさの中の八分目が、また次のちょうどよさになる。縮んでいく複利。 十二分目で続けると、十二分目が普通になる。その普通の十二分目が、また次の普通になる。広がっていく複利。 最初の差は、ほんの一口か二口だったはずだ。 ● 家の埃(ほこり)は、気づかないうちに積もっている。 毎日掃除しても、翌朝にはまた薄く降りている。一日分は目に見えない。一週間分でようやく指でなぞれる。一ヶ月放っておけば、棚の上が白くなる。 見えないものが、積もっている。毎日、確実に。 ● ヒヤリとしたことがある。ハッとしたことがある。 事故にはならなかった。怪我もしなかった。だから忘れる。でも、その小さな「危なかった」が三百回積もると、二十九回の小さなぶつかりになり、やがて一回の大きな事故になるという話がある。 大きな出来事は、突然やってくるように見える。でも振り返れば、小さな兆しがずっと積もっていた。形は最初から同じだった。大きさだけが違っていた。 ● 食べることだけの話ではないのかもしれない。 言葉にも癖がある。思考にも、感情にも、人との距離にも、お金の使い方にも。小さな癖は、毎日繰り返されるたびに、少しずつ「普通」を書き換えていく。 愚痴を言えば、愚痴が自然になる。感謝を口にすれば、感謝が自然になる。どちらも最初は意識していたはずなのに、いつの間にか、それがその人の形になっている。 塵も積もれば山となる。あれは量の話だと思っていた。でも、形の話でもあるのかもしれない。小さな塵の形が、そのまま山の形になっている。 ● このことを考えていたとき、似たようなことを、理屈ではなく、やって見せた人がいたことを思い出した。 二宮金次郎。後に尊徳と呼ばれる人だ。江戸の後期、相模国に生まれた。裕福な農家だったが、川の氾濫で田畑を失い、両親を若くして亡くし、家は離散した。 伯父の家に預けられた少年は、ある日、川に取り残されていた捨て苗を拾った。誰も見向きもしない、使い物にならないとされた苗だった。それを荒れ地に植えた。秋になったとき、一俵の米が穫れた。 一握りの菜種を、別の荒れ地に蒔いたこともあった。翌年には一升になり、その翌年には一斗になった。 捨てられたものが、積もっていった。 ● 彼はそれを「積小為大(せきしょういだい)」と呼んだ。小を積んで、大と為す。 言葉にすると当たり前のことに聞こえる。でも彼がやったのは、言葉を残すことではなかった。 荒れ果てた村を任された。田畑は荒廃し、農民は逃げ出し、借金だけが残っていた。誰もが「もう無理だ」と思っていた場所だった。 彼は大きな改革を持ち込まなかった。新しい技術も、大量の資金も使わなかった。やったのは、まず自分が鍬を持って荒地を耕すことだった。 村の収入と支出を正確に測り、身の丈に合った暮らしの基準を定めた。「分度」と呼んだ。そこから生まれたわずかな余りを、翌年の種や道具に回した。「推譲」と呼んだ。 小さな余りが、次の小さな余りを生む。それがまた次を生む。一軒の農家が立ち直ると、隣の農家が見て真似た。一つの村が立ち直ると、隣の村が学びに来た。 生涯で六百以上の村が、同じやり方で立ち直ったという。 ● わたしが面白いと思ったのは、彼が持ち込んだものが「構造」だけだったということだ。 捨て苗一本で機能した原理が、一軒の農家でも、一つの村でも、六百の村でも、同じように機能した。小さなものと大きなものが、同じ形をしていた。 彼は論文を書かなかった。学会で発表もしなかった。荒地を耕すことで証明した。それが六百の村で再現されたとき、それはもう個人の美談ではなく、構造が正しかったということだと思う。 ● 明治になって、国は彼を「勤勉と倹約の模範」として教科書に載せた。薪を背負って本を読む少年の銅像が、全国の小学校に建てられた。 「頑張れば報われる」という精神論に回収された。でも彼が見せたのは「頑張れ」ではなかった。小さなものが大きなものと同じ形をしている、という構造の話だった。努力の量ではなく、繰り返しの形の話だった。 銅像だけが残って、構造が消えた。わたしには、少しもったいなく思えた。 ● 瓦礫も山の賑わい、という言い方もある。 どんなものでも積もれば山になる。良いものも、そうでないものも。複利は方向を選ばない。ただ、繰り返されたものを増幅する。 ● なら逆に、小さな幸せのほうを積もらせてみたら、どうなるだろう。 お昼だから何か食べる。とりあえず何か入れる。——それも食事だけれど、「あの店の、あの料理が食べたい」と思って食べるのとでは、同じ一食でも積もるものが違う気がする。 大げさなことじゃなくていい。わたしならモスバーガーの朝モスでもいい。地元の定食屋の焼き魚定食でもいい。「これが食べたかった」と思える一食を、自分に許すこと。 その小さな「嬉しかった」が積もっていくと、不思議なもので、もう少し遠くまで手が伸びるようになる。カニを食べに行こうか。鉄板焼きを予約しようか。寿司屋のカウンターに座ってみようか。自分に幸せを積もらせた人は、大きな幸せにも自然と手が届くようになる。 尊徳の捨て苗と、似ているのかもしれない。拾い上げたのは、誰も見向きもしない小さなものだった。 ● 楽しいことも、苦しいことも、いつか終わりが来る。 どちらも永遠には続かない。それなら、日々の小さな一口を、自分らしいほうに寄せていけたら、それだけでいいのかもしれない。 矯正しなくていい。ただ、今日の一口が、明日の「普通」を作っている。それが見えていれば。 小さなものと大きなものは、同じ形をしている。わたしの毎日も、たぶんそうだ。 ● 寛音(ひろん)