←クリックをお願いします。祖母が亡くなったのは私が22歳の頃でした。
実家が寺院で、親戚も寺院がほとんどであるために、葬儀の読経をしたのはほぼ親戚の住職と、そしてお付き合いのある地域のご住職。
いずれも、東本願寺と西本願寺の寺院です。
浄土真宗というのは、伝統仏教のなかでも割合モダンな仏教の部類に属します。
ですから、皆さん、迷信なんか信じちゃいません。
親鸞、蓮如と続く連綿たる教義がありますから、揺るぎない。
葬儀社さんにも「お香典のお礼につけるお浄めの塩は要りません」と言います。
浄める意味がないのです。だって、死は穢れではありませんからね。
死はいつも生と表裏一体です。
いまは、ほとんどの死が病院のなかで迎えられる。病院を一歩出れば、虚無的なまでに明るい日常に戻り「死は非日常」として忘れられていきます。
しかし、死は本来は生に寄り添うもの。「生死(しょうじ)」と一体に考えるものです。
祖母の葬儀では、そんなに「迷信にとらわれた世間一般の常識」のない私たちですから、もう大変。
火葬場からの帰りに「来たときと違う道を帰るのが普通らしいよ」「迷える故人がついてこないようにでしょう」「変!おばあちゃんに迷いなんてないよ」と何の迷いもなく祖母の往生を知る私たちは「来たときと同じ道を帰ろ~っと」「おばあちゃ~ん、ついてきてもいいからねえ」と、同じ道を往復したのでした。
しかも、皆自分の車で、中には赤い車もあって、葬儀場の駐車場がいつになく派手!
葬儀は、故人との別れの儀式と考えられがちですが、実は遺された私たちが生を考える儀式でもあります。
仏道に目覚める「機縁」となる方も多いでしょう。
そんな葬儀が、穢れであるわけがないのです。
堂々と生きた、明治生まれのおばあちゃん。
大好きだったなあ。今も「大きないのち」となって皆を見守っていると思います。
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