心の縁側/人気ブログランキングへ←クリックをお願いします。


「往生際が悪い人ね」
「ほんまに、この人には往生するわ」
 前者の「往生」は「諦めておとなしくする」意。後者は、「身動き取れない、困り果てた」意です。

 そして、もうひとつ。「弁慶の立ち往生」で知られるように、「往生」は「死」を意味する言葉です。弁慶は全身に矢を受けて、立ったまま亡くなりましたね。

 ところが、仏教でいう「往生」は、「死」だけではありません。親鸞は『未燈鈔』の中でこう述べています。
「信心の定まるとき、往生また定まるなり」と。
往生が定まることを「往生一定(おうじょういちじょう)」と言います。
 また『歎異抄』には
「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて」とあります。
 自我に生きるのではなく、浄土の真実を知り、生かされている命に目覚めて、生きていく人生。その自覚をこそ、親鸞は「往生浄土」と説いたのです。

 生きている私たちは迷いの連続です。ふらふらと悩みながら生きています。かといって、そのことを責め、悔いる必要はありません。現実を自覚し「あきらかに」することが大事なのです。
 人である以上、やはり「業」があり、それを打ち払うことはできないと、知ることから始まるのです。。

 業や煩悩を抱えた我が身をあきらかにし、自分が凡夫であることを知り、目覚めれば、往生浄土にたどり着きます。そこは浄土の光が照らし出す「安心(あんじん)」の地です。


メールマガジン『和讃点描』では、木蓮の父・南岳(僧侶)の著書「和讃素描」から1章ずつ配信しています。専門的な内容がほとんどですが、もしご関心がおありの方はどうぞ。
詳細はこちらです。→ http://www.mag2.com/m/0000125708.html