先日プロフィール撮影をしながら

プロフィールでは大幅にはしょっている美人髪コンサルタントになった道のりを自分回帰をしながら綴ってみようかと思い立ちました。

 

今年アラカン(アラウンド還暦)になったわたくしメ

来し方を綴れば膨大になりそうなので、ちょいちょいかいつまんで短めにしようと思います。

 

 

人様にお話するような波乱万丈なことはありませぬが、ちょいちょいオモロ〜な人生なので(*’艸3`):;*。 プッ

ブログを読んでくださる方に何かのヒントやお役に立てればいいなあと思います。

 

 

幼少期編

昭和36年生まれニヤニヤ

いつの時代って感じ笑い泣き

終戦が昭和25年だから戦後11年

まだまだ戦後を引きずっている日本

地べたは舗装されてないし、空き地はいっぱいあった

家族構成は寿司職人の父、専業主婦の母、2歳年上の兄

アパート暮らしの典型的な4人家族

 

小学校に上がる前の検診で左目が遠視弱視とわかる。

すぐに眼科にかかり幼稚園からメガネ生活

 

この頃、幼稚園でメガネをかける子供はいなくて

速攻「メガネざる」といじめられる

 

いじめられ体質はもはやここでできたΨ(`∀´)Ψ

 

ちなみに今は3歳児検診で目の検査をすることになっていて

当時かかっていたお医者様 湖崎 克(こざき まさる)先生が

小児の遠視弱視は小学校入学時の検診で発見しても治療が困難なことから

国や自治体に

・3歳児、幼稚園児の視力スクリーニング及び学童屈折集団健診の実施 

を提案したからなのです。

 

そんなわけで左目は色が分かる程度しか見えてません。

のちに母が「よくコケるので足が悪いのかと思い整形外科に行ったけど、目が悪かったとは気づかなかった」と言ってました。

 

当時、アパートに住んでいて、両親とも和歌山出身で近くに親戚もいなかったためお隣のご夫婦と仲良くしてて、特にそこのおばさんとは母とは姉妹か従姉妹のようにしていて私も多大に影響を受けました。

 

そこはおいおい出てくると思います。

 

このアパート時代はほとんど記憶がなく、母から聞かされたことだけが思い出のような気がします。

ただ、この時代はおおよその人があまり裕福でない時で、我が家ももれなく貧乏を絵に描いたような生活でした。

 

冬の寒い日に練炭火鉢で暖を取っていたのだけど、寿司職人である父は帰宅が遅くて子供を寝かしつけた後、母がうたた寝してしまったため換気が不十分で危うく一酸化炭素中毒になり掛け、親子3人死にかけた話は笑いながら話す母を見ながら「生きててよかった」と思ったものです。

 

そんな時、職人だった父のことをとても気に入った不動産屋さんが、毎日食べたいからと、ご自宅の近くに店を出すよう勧めてくれ、開店資金を貸してくれたのです。

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その店舗兼住宅に幼稚園を卒園してすぐに引っ越すことになりました。

 

そこが私という人間ができる基盤になったと思います。

学生時代に続く