ドキュメンタリー映画「ある精肉店のはなし」を観てきました。 | めー子のブログ

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どうぶつまるごと。

 

「ある精肉店のはなし」公開から5年目を迎え、アンコール上映でした。

2017.11.24ポレポレ東中野で観てきました。

DVD化されていない映画館の上映のみの映画だそうです。

 

大阪府貝塚市で長きにわたり、被差別部落出身者として理不尽な差別を受けながら、

家族経営で精肉店を営んできた北出さん一家。

牛の飼育から、手作業で屠畜解体、販売する。

 

家業を継ぎ7代目となる兄弟の心にあるのは
被差別部落ゆえのいわれなき差別を受けてきた父の姿。
差別のない社会にしたいと、地域の仲間とともに部落解放運動に参加するなかで
いつしか自分たちの意識も変化し、地域や家族も変わっていった。

 

2012年3月。
代々使用してきた屠畜場が、102年の歴史に幕を下ろすと共に
最後の屠畜を終え、北出精肉店の新たな日々が始まった。

 

 

https://youtu.be/y7Rl-dyh_U0

 

私は、お肉を食べません。

動物のために食べません。食べれません。

そんな考えでの感想です。

(記憶が間違っていて、多少の言い回しは違うかもしれないです)

 

2週間くらい前から、この映画を観ようと決めていたものの。

この2週間、映画を観に行くことを思い出すと気分がとても重かったです。

行く当日、ギリギリの時間まで行くことを悩んでいました。

 

2年くらい前に、某屠殺場の職員の方と話す機会があり。

その時に、この映画を観ることを勧められたこともありました。

当日、映画館は、かなり入っていました。

どんな人たちが観に来ているのだろう、どんな考えで観に来ているのだろうと考えました。

ほとんどの人が肉食をし、肉食を肯定し、屠畜関係者もいたのでしょうか。

 

牛が屠殺されるシーンが2度ありました。

牛が、と畜場に歩いて行くシーン。

まわりを見回しても平常心で観ているかのように見えました。

私は胸が締め付けられ、苦しかったです。

 

家族団欒のシーン で笑う人、笑い声があった。

隣の年配の女性が何度も大笑いするのを聞き、憤りを感じました。

私はとても笑えなかった。

 

映画を観る中でずっと、北出さん一家の表情を見ていました。

 

犬がいつも台所に短い鎖でつながれていました。

落ち着いて座ったり、寝そべっている場面はなかったと思います。

いつも立っていました。

可愛がられているのかどうか、見てわからなかったです。

牛と犬、どう違うの?

いろんなことを考えさせられ、その光景を見て複雑でした。

 

出典https://ameblo.mom/keisuke-nanno/entry-11588600991.html

 

屠畜場内にある、獣魂碑前で・・・

「本来なら命を全うするはずが、人間の都合で…」

と、読み上げ謝り感謝する場面があった。

屠畜する、北出さんはわかっているのだと思いました。

牛を育て、自分たちで屠畜しているからこの言葉がでたのでしょうか。

以前、話を聞く機会のあった、某屠殺場の職員からは、

物として扱う言葉しか聞けなかったです。

牛たちを殴る蹴るして、肉が美味しくなるなら殴る蹴ることもすると話されていたのを覚えています。

 

 

「獣魂碑」とは

 『家畜とは人為的にこの世に生を受け、我が身の代償として畜産物という名の食料を供給するという明確な目的をもって生まれてきた動物達である。

それ故、彼らは死を覚悟して凛として生き、目的を遂げた時には幸せであった』と我々はお節介にも彼らの幸せを定義してきた。

しかし言葉の取り決めは言葉の問題であるからこそ、一度「なぜ同じ痛みを感じる家畜を当然のことのように殺し、食することが出来るのか」という疑問が心に噴き出ると、その自問に納得いく答えを準備できないばかりか、人が家畜を殺すのと人がヒトを殺すことの差異さえも見失ってしまう。

価値を等しくする命であると美しい言葉で讃える人達は、人間が家畜の命を奪い食することの根拠をどこに置こうとするのだろうか。

同じ命であるならば、『頂きます』と手を合わせた程度の感謝の仕方では家畜の魂は決して我々を許してはくれないだろう。

しかしながら肉食を全くしないという答えは最も潔い決断ではあるが、根拠を問う前に家畜を既に食していた我々にとって、その時点にまで引き返しベジタリアンへの道を選択することは実に大きな試練である。

ならば、どこに立ち位置を確保し、どのような考え方に至れば食肉することの妥当性が見つかるのだろうか?
 我々人間は、たとえ獣性によって芽生えた命であったとしても、生まれる前から期待され希望され、神仏に手を合わせてやっと叶えられた命である。人と人との関係が紡ぎ出す多様な糸に絡まれ縫い込められ、歴史の縦糸と社会の横糸に繋がった命である。

どんな人間であったとしても、この世でその存在は許され、認められ、喜ばれている。

その存在は愛しく、存在そのものが目的であり、生きること自体が価値なのである。

それ故、人はたとえ悲しく辛くても、苦しい絶望の淵で悶えているとしても「自ら死を選ぶことは決して許されていない」「死ねる自由は全くない」と私は考えている。

「尊厳」という言葉は、そのような人として生まれ、人として遇された人間の命に与えられた言葉であって、他の命に向けられた慰めの言葉ではない。将にこの言葉の定義こそが、ヒトを殺すことと家畜の命を奪い食することの違いを問う論理の源流なのではあるまいか。

それ故に、生き抜くことの意志をもつ人間が自己決定を下せば、家畜の命を一方的に搾取することは許され、逆に我が身に忍び寄る老後の不安な生活よりも格段に幸せに生かすことだってできる。

ならばせめて肉食を可とする消費者は、飼養者が家畜の幸せのために最善を尽くすことを条件に、目的が具現化されるよう環境を整える手助けしなければならないだろう。

スーパーなどで「今日のお肉は高いわね」などというのは言語道断、噴飯ものであると私は思っている。その人達は頂く命に対してどこで感謝を捧げようというのか?
 勿論、「尊厳」という比較衡量を許さない言葉だけを根拠にして「人間には生殺与奪の権限がある」とはいっても心の霧は一掃されそうにもない。

そんな折り「獣魂碑」と書き込んだ石碑が私を慰めてくれる。

この碑の前で、「自分の存在そのものの罪」を問いながらこの世を去った多くの家畜の命を思うとき、私が証明できる幸せだった彼らの存在と、彼らが証明してくれる私自身の生存の確かさが私に安心を与えてくれるのである。

 

屠殺前に気絶させるときに使われるのはガンではなく、

昔ながらのやり方でハンマーを牛の頭にめがけて振り下ろすやり方でした。

苦痛があると思います。

一度で倒れることなく2度目で倒れ、息のあるうち、心臓が動いているのも見える中

頚動脈を切り、放血作業をし、皮を剥ぎ、牛をクレーンで吊り、お腹を割き、内臓を取り出し、牛の身を縦に切り枝肉へ。

内臓類は、女たちが処理すると昔から決められていると言っていたと思います。

内臓を種類ごとに分け、切り、浴槽みたいなところへ内臓を放り込み、水をジャンジャン出し内臓を洗い分ける作業。

 

一頭の牛を屠畜するのに、 大量の水を使っていました。

大量の水、牛の血や内臓物を洗った水を排水する。

牛を育てるにも大量の水が必要、 屠畜するにも大量の水が必要。

肉食は、環境破壊していることも見て分かりました。

 

「良く殺せるよね?」 と良く言われるそうです。

殺すんではなく。

魚や鶏は、絞める、豚や牛は、割る と言う、殺すとは言わない。

そんなことより、聞いてくる人の方がすごいと思う。

と北出さんは、言ってました。

私…)食する人が、その物の言いようは間違っていると思った。 殺させているのは消費者、肉食する者たち。 そういう言い方をすることにより、差別が始まっていると思った。

 

大人しい牛とは言え 屠畜場に入ると興奮していた。

北出さんが少し落ち着かせよう、落ち着くまで待とうと言っていた。

カメラが回っていたから、その言葉が出たのか。

普段からそうしているのか。

牛のために落ち着かせようとしているのか、興奮すると自分たちが危険だからか。

 

北出さんが言っていた。

こうやって大人しい牛は、と畜するのに可哀想になる。

牛が倒れるまでは、そんな気持ちになるが、 倒れてしまうと、商品にしか見えない。

 1t以上の牛の頭を殴ったとき、何度殴っても倒れなかったことがあった。

 倒れなければこちらが襲われてしまう。 必死に殴り十数発目に倒れた。

 

牛を可哀想と思うときもあるけど、 お客さんに「美味しかった」と言われると、牛も報われたように思える、と言っていました。

 

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最後に、

この映画は、屠畜する者たちが牛の命と全身全霊で向き合う姿を見てもらい

知ってもらい、理解してもらい、差別のない社会にしたいと願う現れだと思いました。

以前、某屠殺場の職員と話した際も、部落差別、差別されている話を聞きました。

肉を食べる者たちに、酷いことをしている、職としていることに偏見や差別を受けている。

肉を食べる人たちのために、屠畜していると言っていました。

スーパーに並ぶ肉は、切り分けられキレイにパックされ残酷さが隠されています。

この残酷さは、消費者が生み出していることを知って欲しいです。

差別は、やめて欲しいです。

 

映画を観た後に、思ったことをツイートしました。

「ある精肉店のはなし」のアカウントからリアクションがあったのです。

それは、リツイートではなく、いいね(保存されるのみ)でした。

この映画を観て、肯定的、好感あるツイートはリツイートされています。

私のように肉食に難色を示す内容のツイートは、リツイートできないようです。

ここに、この行為に、この映画の目的が現れていると思います。

肉食をしない視点での映画の観方、考え、意見を受け入れられないのでしょうか。

私たちのような者に偏見を持ち、排除し、差別に近いかと思いました。

肉食する者たちだけが観る映画なのでしょうか?

 

 

 

監督の声

「ある精肉店のはなし」の監督、纐纈あやさんに聞く屠場「いのちを食べて人は生きる」

 2013年12月06日 02時05分 JST | 更新 2014年07月15日 23時31分 JST        

http://www.huffingtonpost.jp/2013/12/04/hanabusa-aya-eomans-story_n_4388338.html

精肉店を営む北出さん一家

■枝肉に漂う“気配”がとにかく美しかった

「震災の数年前に、本橋さんが撮影した枝肉(内臓を取り除いて背骨から左右ふたつに切断した肉)の写真を見たことがあったんです。その時、あまりの美しさにその場を動けなくなってしまって、ずっと見入ってしまいました。そして、枝肉や屠場で働く人々の写真を美しいと思っている自分にも驚きましたね」

肉の造形美などではなく「そこに漂う“気配”がすごかった」のだという。頭で想定している美とはまったく異なる美しさ。

「屠場には静謐な何かがあり、そこでとても大切なことが行われているのでは……と感じました」。纐纈さんはその後、とある中規模の屠場を見学に行き、大きな衝撃を受けたという。「そこにはいのちといのちが向き合う真剣勝負がありました。これがあってはじめて、私の“食べる”があったんだと。それまで生きてきたなかで最大の衝撃で、揺さぶられました」と、まったく違う世界を知った瞬間を振り返る。

北出さんを紹介されたとき、北出さんたちが利用している屠場の閉鎖がすでに決定していたため、纐纈さんは「残念だけれど、作品にするには間に合わなかったな……」と考えていたそうだ。しかし、小さな奇跡が起きる。行政の手続きの都合で閉鎖が一年延期になったのだ。

一般的に、屠場にたずさわる人々が取材を安易に引き受けることはあまりない。生死を扱う現場であることや、一部ではその裏に被差別部落の問題などがあるからだ。さまざまな要因が複雑にからまって、これまで屠場の内部が公になることは少なかった。そこには、日本人の「死」に対する独特の“ケガレ観”のようなものも、大きな影響を与えていただろう。

しかし、屠場の閉鎖が決まったことで、北出さんたち自身に「自分たちが行ってきたことを記録に残したい」という思いが生まれる。そこから先は、ていねいに被写体と向き合うことを心がけてきた纐纈さんの本領が発揮された。取材依頼は、承諾される。

■生身の人間が生きものと有機的につながっている

「屠場で生き生きと働いている人たちの姿は、とても素敵だと思いました。悲壮感や暗さはまったくないです。食べるために生きものを絞めることを残酷だと思う人がいるとすれば、それは生きもののいのちが、自分自身の食べるという行為とつながっている実感がないからではないでしょうか。仮に残酷というならば、それは自分自身に返ってくることであると私たちは自覚しなければいけないと思います」

「私の場合は、大きな牛を相手に命がけで働く彼らを目の前にした時、素直に『ありがとうございます!』という思いがこみ上げました。だって、私たちが食べるお肉です。本来ならば自分ですべきことを、ずっとやって下さっていた方たちがいたんだ……と感じたんです」

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牛を飼育している牛舎から屠場に連れていく北出さん

一方で、纐纈さんは屠場の仕事を映像化することの責任の重さをも感じたという。家業の屠畜の仕事を継ぎ、7代目となる北出さんたち。仕事について周囲の適切な理解を得られず、「残酷な仕事」という言葉に傷ついてきた過去を持つ。屠畜に従事する人の多くが、少なからず差別的な言葉を浴びせられたことがあり、自分の仕事とは何なのかを日々問い続けている。自分の作品を機に、それを助長するようなことがあってはならない―—。纐纈さんは悩んだ。

解決のヒントになったのは、ほかでもない北出さんたちの「暮らし」に触れたことだった。

「屠場を特別な場所として扱うのでなく、北出さんたちにとっての普通の暮らし、日常の仕事として撮ることで、作品にできるのではないかと、ある時気づいたんです。北出さんの生きものや食べものを扱う手つきはていねいで、その“手の雰囲気”がとってもやさしいんですよ。決して雑なモノ扱いをしていない。生身の人間が、いのちあるもの、あったものに対して有機的に反応している。それを伝えようと思いました」

その“手の雰囲気”は、祝島で出会った海を愛する漁師たちと共通したものだったという。

「生きものと日々接し、つながりを持つ人々特有の懐の深さというのでしょうか。他のいのちがあって自分たちが存在していることの実感が彼らにはしみついている。まさに命の本質につながって生きているのだと思います。食べものを生み出すことを生業にしている方たちを心から尊敬しています」

纐纈さんのそうした思いは、見事に一本のフィルムとなった。ルポライターの鎌田慧氏は、「いのちが輝いている、前代未聞の優しいドキュメンタリー」と作品を絶賛。東京・ポレポレ東中野を皮切りに、大阪・第七藝術劇場などの全国の劇場で順次公開予定となっている。

「被写体が大切にしてきたもの、大切にしたいものを撮りたい、という思いがあります。それこそが私にとって、伝えたいもの。ぜひ感じ取っていただけたらうれしいです」

~転載終了~

 

 

さっち~さんが以前に、観ていて感想がありました。

さっち~のブログより

それは思い込みではないですか?印象操作に騙されているだけではないですか?『ある精肉店のはなし』 肉食が広げる差別。絶望の世界。

「大阪ローベジ祭り」からの「ある精肉店のはなし」

 http://amour918.blog.fc2.com/blog-entry-1341.html